曾良より芭蕉への書状
素堂、菊の句・素堂十三唱の事など
この書状元禄三年(1690)九月二十六日、
曾良から芭蕉へ宛てたものである。
奥羽三越路の大旅行を終へた翌年である。
乃ち深川の曾良の草庵から大津、
乙州の宅に静養していた旋先の芭蕉へ送ったものと見える。
九月十二日之貴墨一昨廿四日伊兵衛持参再三於今不止拝見候
御下血再発之義倍偖々(さてさて)無心元奉存じ候せゝ(膳所)大津之内彼是御馳走ニ而
殊老医も都連衆之内ニ有之候故御心之儘に御養生被成儀由承先ハ乍安堵それにも御心つかひ等も可有之かと又無心元奉存候如仰此方は乍御不自由足りたる御住所程之事ニ候へは
御心安き方ハ可有之かご存候ても御文言之趣ニ而ハ常年之御下りは不定之様に被察一人御馴ケ敷存候、先書ニも申上候通野子も常年ハ様々之煩共ニ而息災成間無之候故、空草庵ニ一年を暮申候、随分致養生候、若、年内御下りも無之候ハ、春ハ早々乍御迎罷上り可申と奉存候、其内ニも何とそ御下向を願斗ニ候、いかにも御住所御求御門弟中待被申候由尤かと被
存半左衛門殿御息災と聞へ申候、先日従是も書通仕候、此の元替事無御座候。
昨日杉風にも逢申候故御書中見せ申し候。
左衛門殿金出不申上ニ当年ハ大分鮭荷参り毎日仕切金夥敷此間少々あくまれ候程之対に見へ申候
一、
露通事高橋の手前の裏ニ店かり春迄は江戸住と見へ申候、
折々此方へも参塗候御書中之通りにて候、野子なと出曾も無用之事にや、
重而思召ひそかに承度候、先はいか様之すべ共委不存故不替躰にもてなし候へとも、
貴翁御通シ無之者ニ出会候も不快候故御内意承度候。
一、
ひさこ集ノ事かねて及承候 キ角(宝井其角)より露通かり参由及承候間かり見可申候キ角などハ心に入不申候様ニ承候、御発句共御書付被下悉奉存候、かすかにさひたる意味得心仕なから、例之念入病除不申それのミ杉風とは申事ニ候、十三夜御座候外にも聢に無之との事ニ候。
何とやらん重く不快ニ御座候、いか様「ひさこ集」見取し候而心付候ハバ、おい(?)仕上ケ可申と存候、杉風句とも反故之内より見出申候故縣御目候、是も重くしたるく聞へ申候、先日武野へ同道仕候発句文なと見せられ候、書き出しなといかが乍存外へ見せられも、不被致し候故先能出来候分ニ仕置申候、嵐雪集出来「其袋」と申候、自序にて御座候、中々出来申候、素堂手傳と申候。発句・歌仙等不面白候、素堂去年名月十三句入申候、巻頭季吟にて
御座候。
一、
字か神弁才天の事別紙書付懸御目候、別御覧不分かと無心元奉存候
素堂きく(菊)の句之事得其意候、此間にかゝせ申候而重而上せ可申候、
幻任庵之記之事畏入候、拝見仕度候。
〔筆註〕
十三夜は貞享五戊辰長月の其夜芭蕉庵で、素堂・杉風・越人・友五・岱水・露通・宗波・石菊・芭蕉・蚊足」の十人が一座して興行。
曾良発句
茄の木を引すつるにも秋の果
元禄三年九月十三夜 遊園中十三唱
ことしの中秋の月は心よからず、
此夕はきりのさはりもなく、
遠き山よもうしろの園に動き出ルやうにて、
さきの月のうらみもはれぬ
其一
富士筑波二夜の月を一夜哉
其二 寄菊
たのしさや二夜の月に菊そへて
其三 寄茶
江を汲て唐茶に月の湧夜哉
其四
旨すぎぬこゝろや月の十三夜
其五 寄蕎麦
月に蕎麦を占ことふるき文に見えたり、
我そばゝうらなふによしなし
月九分あれのゝ蕎麦よ花一つ
其六 畠中ニ霜を待瓜あり。誠に筆をたてゝ
冬瓜におもふ事かく月み哉
其七 同隠相求といふ心を
むくの木のむく鳥ならし月と我
其八 寄薄
蘇鐵にはやどらぬ月の薄かな
其九 寄蘿
遠とも月に這かゝれ野邊の蘿
其十
一水一月千水千月といふ古ごとにすがりて、
我身ひとつの月を問
袖につまに露分衣月幾クつ
其十一 荅
月一つ柳ちり残る木の間より
其十二
寄芭蕉翁
こぞのこよひは彼庵に月をもてあそびて、
こしの人あり、つくしの僧あり。
あるじもさらしなの月より帰て、
木曾の痩せもまだなをらぬになど詠じけらし。
ことしも又月のためとて庵を出ぬ。
松しま、きさがたをはじめさるべき月の所々をつくして、
隠のおもひでにせんと成べし。
此たびは月に肥てやかへりなん
其十三 国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな