山口素堂 『宗長庵記』 素堂60才 元禄十四年(1701)
『宗長庵記』
連歌の達人蕾庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元公につかへ、故ありてみづから髪を薙出、華洛にのぼり、種玉庵宗祇法師にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として猶歌仙に人丸赤人有がごとし。性行脚を好み、江山を友とし岩上樹下を家となして風月に宿る事いまさらいふに及ばず。記詞花言葉・新撰筑波集・北国の道之記及び宇津の山の記にのこれり。然共宗祇居士、牲丹花翁のごとく世にいひ傳へたる事多からず。同国の東北にあたつて天柱山のふもと柴屋といふ所に両居士は文亀年中相州箱根山にて終たまふよし、宗長居士は享禄元年弥生初の六日と計傳へきて桂城の地きはめてさだかならず。此郷にて出生の事はうたがふ所なし。よつて郷人風雅の旅人をやどさしめむとおもひたつこと久し。予たまたま此郷にやどりて聊きく所をしるしさりぬ。他日よくしれらん人、記つきたまへ、
元禄辛巳(十四年)二月五日 武陽散人素堂書