芭蕉庵の位置について
参考資料 『定本』奥の細道 大薮虎亮氏著 昭和29年刊 一部加筆
元禄二年(1689))頃は前述の如く今の江東区新大橋三丁目の辺(新大橋の東、即ち元の六間掘りの辺りと信ずる。従来の説や予が考えていた番にも疑いを起したので、次に述べる。
新大橋三丁目辺は、北は千歳町二丁目に接し、その北は竪川、また南は常磐町に接し、その南は小名木川(をなぎがは)で、三丁目の西方には新大橋が隅田川に懸かっている。
これよりさき芭蕉は延宝八年(1680)の冬の頃か、今の江東区(元の深川区)内の庵に初めて入ったが、それから二年後即ち天和二年の冬類焼にあって焼け出され、翌三年甲斐国に旅行して江戸に帰り、本船町の小沢卜尺の家に寄寓したりして、その冬再築の庵に入った(素堂再建観化簿)。芭蕉は此の庵から杉風が別墅に移ったのである。
さて最初の庵はどこにあったか。頼確な記録が無いのは遺憾であるが、これの第一資料たる芭蕉の作品をしらべてみても、単に深川とあるのみで、的確に場所を書いたものは見当たらない。予は深川方面の地図について、古くは寛文十一年(1671)頃(之は後の地図の基礎となつたもの)、延宝四年(1676)、天和三年(1683)、貞享五年(1688)、元禄二年(1689)、同三年(1690)、同六年(1693)の地図をしらべてみたが、得るところが多い。地図と実地踏査其の他の点から考察して、前述の如く新大橋三丁目の辺と断ずるのである。
新大橋三丁目辺は昔深川村と称した所で、大間堀の西側に掌り、寛文十一年の地図に深川村と見え、芭蕉の奥羽施行の元禄二年の地図にはまだ深川村とある。すでに元禄六年の地図には見えない。深川と云う名が漸次広い地域にまで広がっていったのは、もと此の深川と云う村名から起ったものと思う。之については詳説を省く。芭蕉の文(延宝八年冬の作)に「市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す……」(『続深川』)とあるのも、後の深川区ではなくて、深川村の辺という意味で、ほとりとあるのに注意すべきである。
次に小名木川が隅田川に注ぐ辺(今の常磐町一丁目)に万年橋が懸かっていて、今は近代式の立派な橋である。此の橋は昔、元番所橋と称したもので、寛文十一年地図に「本番所のはし」、延宝四年の地図には「元番所ばし」とある。享保十年(元禄二年から三十六年後・1725)のには既に「万年橋」と変っていて、江戸砂子に、長二十三間とある。此の万年橋附近に芭蕉庵があったと云う説があるが、疑わしいので、之について述べる。
万年橋の四方隅田川岸に近い所に今小祠があって、内に高さ一尺くらいの芭蕉翁の陶製の像が安置してある。その傍に小さな稲荷の社があって、藤棚がある。予が三回目に訪うた時は五月頃で、薄紫の藤娘が汐風にそよいでいた。この芭蕉堂の前に立札が立っていて、左の記事がある。
〔史蹟〕 一 芭蕉庵址
俳聖芭蕉翁草庵ヲ結ビテ古池ノ句ニ知ラレタル所
大正十三年(1924)四月 東京府
此の記事はおそらく杉風秘記などに拠って認定したものかと思われるが、ここを庵址とするのは疑わしい。杉風秘記披書(杉風句集に載するもので、此の句集は天明五年(1785)杉風四世抹茶庵梅人編。抹茶席の事は後に云う)に云う
「……その後此方深川元番所生簀の有之所に移す時にはせを翁桃青と改名せられ供」
とあって、次に古池やの句が載せてある。杉風秘記は信じ難い点が少くないが、右に引
く条も疑わしい。芭蕉が深川に始めて移り住んだのは延宝八年の頃であるが、その頃は前述の如く深川村と云う村が六間堀の西にあって、元番所(今の萬年橋)の辺とは大分位置が隔っている。そこに生洲が在ったと云うのも疑わしく、一朝大川が有水すれば流失しそうな所で、今は河岸が高くなっているが、それでさえ増水すれば危険な所である。生別のあるような所は六間堀の辺が尤もだとうなずかれるのであり、万年橋の北の辺は往来の要路に寄り、隙栖者の住むような併ではない。
第一此の北詰の辺は既に寛文の地図にもある如く、伊奈半十郎の大邸宅の在った所で、その北は尾州中納言とあり、之も大邸宅であった。伊奈氏は深川方面の地図には元禄にかけて必ず書入れてあるので、こゝに略述しておく。
伊奈氏の祖は家康に仕えて産業土木等に抜群の功があり関東郡代となり、以後代々同じ職にあり、代々水利土木等に傑出していた。寛文の頃は二代で、二代目から代々俗称を半十郎と云った。延宝から元禄にかけては三代目四代目の頃であった。此の邸内に杉風の生洲があったとも思われず、又芭蕉が住んだとも思われず、たとえ部外の地先としても、往来の要衝ではあり、大川の浸水氾檻等の危険が度々あり、到床静間な住居をなすべき場所とは思われないのである。
曰人の『蕉門諸生全伝』に
「六間掘元番所卜云處杉風か別荘也。其處ヲ藤右衛門ニ譲リテ不レ用古池同前ニナル。其處ヘ芭蕉翁ヲ置申セシ也」
とあるのは、右の秘記に依ったらしく、又「六間堀元番所」と云うのは怪しく、六間堀と元番所とは方角も異なるのである。
また前述の如く天和二年に類焼にあったのであるが、元番所の辺は類焼もありそうに思われない。やはり深川村附近即ち今の新大橋三丁目の辺で、延宝天和頃の地図や、延宝五年刊『江戸雀』などを見ても、此の辺りは町並も在ったので、類焼したことがうなずかれる。此の火事は今の本郷から両国橋に延焼し、隅田川を越して本所から深川へと移ったのであつた。武江年表天和二年の条に云う
「十二月廿八日未下刻、駒込大圓寺より出火、本郷、上野、下谷池の端、筋連御門、神田の辺、日本橋まで、浅草御蔵、同御門、馬喰町辺、矢の御倉、両国橋焼落、本所深川に至る、夜に入て鎮火す。此火事に邁ふて財賓を失へるもの、或は焼死怪我人等著しく、天神の臺死人多く、道路に悲泣のさまを哀憫して、学寮の了翁僧都四年来貯へ置れし書籍の料一千二百両の余を貧人に施せり……深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、翁も潮にひたり烟中をのがれしといふは此時の尋なるべし」云々。翁の記事は大分誇張して書かれている。
江戸名所図会などに
「芭蕉庵は萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にあるとあるのは俗伝と思われるし、又前述の如く信じ難い説である。旧記では梨一の『菅菰抄』中の芭蕉翁伝が極めて簡単ではあるが最も正確であろう。いわく
「……其後東武へ下向ありて、深川の六間堀といふ處に庵をまうけ、天和二年まで在住ありしに、其庵囘禄の災にあひて暫らく甲州に赴き、彼国にて年を越え、翌三年の夏の末ならんか深川の舊地へ帰り」云々。
そこで強いて憶測すれば、初庵は六間堀の川が小名木川に灌ぐ西の辺(今の常磐町二丁目の辺)であったろう。
再庵は此の辺から六間堀の川に沿うて北の方、深川村に移ったのであろう。三度目の庵も此の附近である。
芭蕉が其の庵を「泊舶堂」と号した事は越人の『鵲尾冠』などに見える。同書上、
似合しや新年古き米五升 の句について、
「此発句は芭蕉江府舶町の囂(かまびす)に倦、深川泊船堂に入れし次る年の作なり」云々。これらに依りて芭蕉は初庵を泊船堂と号した事か知られるが、之に依って大川の河岸近く庵が在ったと推測するのは誤りで、六間堀も小名木川も舶を通じていたものである。又「芭蕉を移詞」(元緑五年作)に
舊き庵もやゝちかう三間の茅屋つきづきしう、杉の柱と清げに削りなし、竹の枝折戸安らかに、葭壇厚くしわたして、甫にむかひ池にのぞみて水樓となす。地は富士に対して、柴門景を追うてなゝめなり。浙江の潮、三ツまたの淀にたゝへて、月を見る便よるしければ、初月の夕より雲をいとひ雨をくるしむ」云々。
「舊き庵もやゝちかう」とあるに依って三度目の庵は二度目のに近かった事が知られるが、「浙江の潮三ツまたの淀にたゝへて」とあるので、いかにも庵が三叉の近くの河岸にあった如く思われるが、之は六間堀の辺から大河も見え、三又も眺められるので、大まかに書いたのである。三又は六間堀の庵から西南方に見えていた所で、河筋が三又の如くなり、隅田川の一名處であった。今は流域が変遷していて、位置が違っているが、今の清洲橋(きよすばし)の辺に当る。貞享四年(元禄二年から二年前)作、鹿島紀行に「門より舟に乗りて行徳といふところにいたる」とあるが、之は庵の前近くにある六間堀(幅が六間ある)を舟に乗って小名木川(既出)に出て、この川を遡って行徳にあがったのである。河合曾良の随行日記にも、出発の日「深川出舶」とある。
さて元禄二年頃の庵の風情は前に引いた『鵠属冠』にある初庵の記事や、前端「芭蕉を移詞」にある三度目の庵の記事などに依って推測され得る如く旧庵と同じような住居で極めて簡素な茅屋であったと思われる。
人見竹洞(元禄時代幕府儒官)
六月十日、人見竹洞等が二三の友と素堂亭を訪れる。【素堂の家(『人見竹洞全集』所収。国立国会図書館蔵)】
素堂の家
癸酉季夏初十日与二三君乗舟泛浅草入。
川東之小港訪素堂之隠窟竹径門深荷花池凉。
松風續圃爪茄満畔最長広外之趣也。(『俳句』朝倉治彦氏紹介。)