水間沾徳(せんとく) 『俳文学大辞典』
俳諧師。寛文二(1662)~享保十一(1726)・六五歳。
はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。別号、合歓堂。江戸の人。はじめ調和門の調也に師事。調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく、延宝五年(1677)ごろ、露沾から各一字を賜り、調也は露言、彼は沾葉と号した。以後、露言とともに調和系の俳書に入集する。同じころ同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正・清水宗川に歌学を学び、のち同門の原安適と親交を結んだ。やがて内藤家に召されたらしく、延宝末年ごろ、国元の陸奥国磐城平に赴いたが、天和三年(1683)、露沾の退身で出仕に望みを失い、貞享二年(1685)、風虎没後に致仕、法体となる。
貞享四年ごろ沾徳と改めて立机、露沾とともに調和系を離れ、素堂を介して蕉門に親し其角と末長く提携する。芭蕉没後、其角・沾徳の両門は交流しつつ江戸俳壇の主流を形成し、両点者の俳風は洒落風と称され時流を主導した。其角没後はほかに有力宗匠のいないまま、傘下に江戸俳壇の諸派を糾合し、「大宗匠」と仰がれたが、俳壇経営には必ずしも積極的でなく、市中に閑を好む睡癖によって合歓堂と号したという。本所法恩寺に葬る。
*『沾徳随筆』によれば、「本歌本詩を一重抜きて取る」または「その上を一曲あるやうに翻訳する」ことによって、古きを新しくする句作を重視し、しかも手際の跡を見せない緊密直裁な仕立てをよしとした。編著、撰集『俳林一字幽蘭集』『文蓬莱』『余花千句』『後余花千二百句』沾徳点『江戸筏』、句集『俳諧五子稿』ほか。追善集、『自字録』(沾洲ほか編)百か日『水精官』(仙鶴編)一周忌『ちりの粉』(紹廉編)七回忌『浜松ケ枝』(姑山編)一三回忌『合歓の華道』(同)。
沾徳著『沾徳随筆』
享保三(1718)稿。全巻一つ書きの雑纂形態で、自他の詩歌俳諧を記録し、評解な
ど加える。後水尾院・飛鳥井雅章・鳥丸資慶・中院通茂・木下長囁子・山本春正・清水宗川らに関する伝聞記事、中村少長・市川三升・赤穂浪士らとの俳交記録、原安適の沾徳句評、沾徳の藤原定家・武者小路実陰・芭蕉・其角評、素堂追悼句文、散逸俳書の序・跋や年々の歳旦・歳暮吟など注目すべき記録や言説が中の発句を収める。
初日の出伊勢に住たくおもひけり 沾徳
俳諧師。寛文二(1662)~享保十一(1726)・六五歳。
はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。別号、合歓堂。江戸の人。はじめ調和門の調也に師事。調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく、延宝五年(1677)ごろ、露沾から各一字を賜り、調也は露言、彼は沾葉と号した。以後、露言とともに調和系の俳書に入集する。同じころ同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正・清水宗川に歌学を学び、のち同門の原安適と親交を結んだ。やがて内藤家に召されたらしく、延宝末年ごろ、国元の陸奥国磐城平に赴いたが、天和三年(1683)、露沾の退身で出仕に望みを失い、貞享二年(1685)、風虎没後に致仕、法体となる。
貞享四年ごろ沾徳と改めて立机、露沾とともに調和系を離れ、素堂を介して蕉門に親し其角と末長く提携する。芭蕉没後、其角・沾徳の両門は交流しつつ江戸俳壇の主流を形成し、両点者の俳風は洒落風と称され時流を主導した。其角没後はほかに有力宗匠のいないまま、傘下に江戸俳壇の諸派を糾合し、「大宗匠」と仰がれたが、俳壇経営には必ずしも積極的でなく、市中に閑を好む睡癖によって合歓堂と号したという。本所法恩寺に葬る。
*『沾徳随筆』によれば、「本歌本詩を一重抜きて取る」または「その上を一曲あるやうに翻訳する」ことによって、古きを新しくする句作を重視し、しかも手際の跡を見せない緊密直裁な仕立てをよしとした。編著、撰集『俳林一字幽蘭集』『文蓬莱』『余花千句』『後余花千二百句』沾徳点『江戸筏』、句集『俳諧五子稿』ほか。追善集、『自字録』(沾洲ほか編)百か日『水精官』(仙鶴編)一周忌『ちりの粉』(紹廉編)七回忌『浜松ケ枝』(姑山編)一三回忌『合歓の華道』(同)。
沾徳著『沾徳随筆』
享保三(1718)稿。全巻一つ書きの雑纂形態で、自他の詩歌俳諧を記録し、評解な
ど加える。後水尾院・飛鳥井雅章・鳥丸資慶・中院通茂・木下長囁子・山本春正・清水宗川らに関する伝聞記事、中村少長・市川三升・赤穂浪士らとの俳交記録、原安適の沾徳句評、沾徳の藤原定家・武者小路実陰・芭蕉・其角評、素堂追悼句文、散逸俳書の序・跋や年々の歳旦・歳暮吟など注目すべき記録や言説が中の発句を収める。
初日の出伊勢に住たくおもひけり 沾徳