- 新井白石『折たく紫の記』に見る柳沢吉保
- 綱吉将軍薨去と「生類憐令」の廃止 その時吉保は
宝永六年(一七〇九)の春正月十日に、綱吉将軍粟去の報があり、明日人々は皆西城に参上するようにとの告知があった。自分も翌十一日に参上した。その時、意見書を袖に入れて、詮房朝臣を通じて奉ろうと思ったが会えなかったので、その舎弟の中務少輔詮衡を通じて奉った。碑謁蛸綿のその意見書には、当面の急務である三力条を記しておいた。この日、夜になって雨が降った。これは、去年の十月二十日以来はじめて降った雨であった。十二日にも、また参上して意見書を奉った。この夜また雨が降って暁までつづいた。これ以後毎日参上したが、まだ詮房朝臣には会わなかった。十五日になって、はじめて会って、これまで申しあげたことなどについて、様子を聞いた。十七日に、当十銭を廃止されるという仰せがあった。この夜また雨が降って、暁までつづいた。人々の宅、地、町々等を他所に移転さすこと、などが中止になったのも、この頃のことであろう。
当十銭のことは、前に記したように、去年の冬以来、商人たちに使用する旨の証文をさし出すようにとあり、その催促は、去の日までつづいた。また人々の宅地や町々を移転させる件も、年がすでに改まったので、家を壊し、家屋を作り、資財雑兵などを持ち運んだ。先例では、将軍薨去の場合には、七日ぐらいは工商ともにその仕事を休んだが、その期間が過ぎると、の売買、家屋の建築なども始まるので、これらの御沙汰がなくては、世の人は安心できないのであろう。それではよくないので今日の事を仰せられたのである。
十九日参上した時、元和令ついて仰せがあったので、家に帰って、その夜、「神祖法意解」一冊を撰述して、明日献上しょうと思ったところ、夜が明けると召されたので、参上してその事をも献上した。午後一時すぎに帰宅したが、重ねてお召しがあったので参上した。この日、前代の御時に制定せられた、生類あわれみの令が停廃された旨を承った。二十二日になって、御葬送の儀があった。雨が降りつづいたので、この日になったのだということである。
ある人の言うのに、御葬送の儀が今日まで延期になったのは、ほんとは雨が降りつづいたためではない。理由があってのことである。
いつの頃であったか、世継の君が参上されたところ、少将吉保(柳沢)、右京大夫輝貞、伊賀守忠栄、豊前守直重などの朝臣をはじめ、近習の人々を召されて、「自分が年来生類をいたわったのは、たとえ不条理のことではあっても、このことだけは、百年後も、自分が世にあった時のように御沙汰あるのが孝行というものである。ここに祇候の者たちも、よく心得ておれ」
と仰せられた。
しかし、この数年来、このことのために罪におちた者は、その数何十万人に及ぶかわからない。未だに判決がきまらず、獄中死の屍体を塩漬けにしたのも九人まである。まだ死なない者も莫大な数である。この禁令がのぞかれなければ、天下の憂苦はなくなるまい。
しかし、あれほどまでに遺言しておかれた禁を、当代になって、除かれるのもよろしくない。ただどのようにもして、遺誡のとおりでありたいとお考えになったので、まず吉保朝臣を召して、考えられたことをおっしゃつた。
この朝臣もともとこの禁令をよいと思うはずもなく、とくに前代の御覚えは他に異なっでいたものの、薨去後はどうなるかわからないと思ったので、
「仰せのおもむきは、まことに御孝志の至りと存じます」
と言ったので、
「では輝貞をはじめとして、今までこのことを司っていた者どもにこの旨を伝えよ」
と仰せられた。そこで吉保が人々に仰せを伝えたところ、一人として異議を唱える者はなかったので吉保はその旨を申しあげた。
それではというので、二十日に御棺の前においでになって、
「はじめ仰せを承りましたことは、わたくしとしましては、いつまでもそむくことは致しません。ただ天下人民のことになりますと、思うところがありますので、お許しをいただきたいと存じます」
とおっしゃった。そしてむかしかの遺誡を承った人々を御棺の前に召し出されて、それまでのいきさつを説明なさり、そのあとでこの禁令を廃止する旨を仰せられたのである。
まだ御葬送の儀も行なわれないうちであったので、世間ではこれが御遺誠のことだと思ったのである。
また今夜の御供をすべき近習の人々のうち、髪をおろすことを希望した者も少なくなかったが、これも旧例によってその人数が一定しているので、その人を選ぶ役目は、吉保らの人々に申しつけられた。この時に吉保も髪をおろして、御供をしたいと望んでいる由であった。
「この上ない御恩に感じて、そのように思うのはもっともであるから、自分はそれを止めようとは思わない。しかし代々の例を考えるに、貴殿のような方が、髪をおろして御供をしたためしはない。むかし厳有院家綱公の御代になって、殉死を禁止された。今また自分の治世のはじめに、これらの例をはじめるのは、適当でないであろう。所詮は、御葬事が終ってから退職して、子息に家督を譲って後に、望むとおり髪をおろしたら、代々の例にも違反せず、また自己の志をも遂げることになろう」
とおっしゃつたので、この吉保朝臣はついに仕えを辞されたという。
この二つの事は、わたくしには仰せ聞かせられなかったのだから、そのことの真偽は知らない。しかしわたくしに語った人も、いいかげんなことを言う人でもないから、その話をここに記しておく。
今日聞いたところ、はじめ信篤は、「代々周【国家財政困窮の事】二月三日お召しがあったので参上した。詮房朝臣に仰せ下されたことに、大喪の後は、家老たち一人ずつを本城に宿直させている。ところが彼らが言うに、かようなとき一日でも本城に主君がおられないのはよくない。自分がすみやかに移るべきであるというのである。代代の例によれば、前代も常の御座所を改造して移られた。今度は大御台所の移り住まれるべき御所をつくって差しあげる予定なので、これらのことについて協議させたところ、国財はすでにことごとく尽き、今後のためには少しも残っていないという。前代における国家の財政は、加賀守忠朝敵久がつかさどっていたというが、実際は近江守重秀一人りに委せられたので、重秀は美濃守吉保、秋元対馬守富明らと相談したのである。だから加賀守もその詳細を知らず、ましてやその他の家老たちは関与していない。いま重秀が議り申すところは、御料地はすべてで四百万石、年々納入される税金はおよそ七十六、七万両余、このうち長崎の運上というもの四万両、酒運上というもの六万両、これらは近江守が命じたところである。
このうち夏冬御給金として三十万両余を除くと、あまるところは四十六、七万両余である。ところが去年の国費は、およそ金百四十万両に達した。このほかに内裏を造営して差しあげる費用がおよそ金七、八十万両要るであろう。したがっていま国財の不足分は、およそ百七、八十万両を越えている。たとえ大喪の御事がなくても今後使用しうる国財はない。まして、当面の急務たる四十九日問の御法事の費用、御廟を建てる費用、将軍宣下の儀を行なうための費用、本城に御移転になる費用、このほか内裏造営のための費用はなお必要である。ところが現在、御蔵にある金は、わずか三十七万両にすぎず、このうち二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くための夫役を諸国に課して、およそ百石の地から金二両を徴収された約四十万両のうち、十六万両をその費用にあてられ、その余りを、城北の御所をお作りになる費用として残しておかれたのである。これより他に、国家の費用にあてるべき金はなく、たとえ今これをもって当座の費用にあてても、十分が一も足りないであろう、というのである。加賀守をはじめみなみな大いに驚き、心配して近江守に考えさせたところ、前代綱吉公の御時・毎年支出が歳入よりも倍増して、国財がすでに破綻しはじめたので、元禄八年の九月から金銀貸を改鋳された。それ以来今まで、年々に収められた公利は、総計およそ金五百万両であった。これでもつていつもその不足分を補充していたところ、同じ十六年の冬、大地震によって傾いたり、壊れたところを修理せられるに及んで、かの年々に収められた公利も、たちまち使いはたしてしまった。
その後、また国財の不足が、以前どおりの状態になったので、宝永三年(一七〇六)七月、重ねてまた、銀貨を改鋳されたが、それでも歳費に足りないので、去年の春、対馬守重富のはからいで、当十銭を鋳出さるることをも決行された。今になって、この危急を救うには、金銀貸を改鋳される以外には、方法はないでしょうと言う。加賀守は年来このことに関与していてすら、それでもその詳細を知らず、ましてその他の者は、これらのことは初耳なので、今になって、どうとも考えようも知らず、ただ近江守が言うとおりに従おうという旨を述べた。自分もこの年来、国費が不足であろうとは思っていたが、これほどの窮迫ぶりだろうとは夢にも思わなかった。
しかし金銀貨の改鋳は、わたくしの賛成する事でなく、このこと以外は、よろしく相談しょうと言った。重ねて、また、近江守が言うには、はじめ金銀貨の改鋳を行なって以来、世の人の批評をまぬかれなかったが、もしこの方法によらなかったならば、十三年ばかりの間、なにをもって国の費用を補うことができたであろうか。ことに、また元禄十六年(一七〇三)の冬など、これによらなかったら、どうしてその急難をお救いになれたであろうか。だからまずこのことによって応急の処理をなし、これより後に年芸穀物も豊かにとれ国財も余裕を生じた暁に、金銀貨の製法をむかしに返されることは、きわめてやさしい事であろう、と言う。
皆の言うところもまたこれと同じで、天下の変事はいつ起こるかわからない、今のような事態であったら、もし今後思いがけぬ異変が起こった時、なにをもってその変に対処することができよう。ただ彼の意見に従うに越したことはない、というのである。自分はこれに答えるのに、近江守が言うところも、道理があるように思われるが、はじめ金銀貨の改鋳のようなことがなかったら、天地の災変も、うち続いて起こらなかったかも知れない。もし今後思いがけない異変が起こった時、その変に対処すべき方法がなかったら、わが代においては、神祖の大統が絶えらるべき時が来たのである。どうして、自分はまた天下人民の怨苦を招くような愚かなまねをしようか。ただ、どのようにも、他の方法を以て処理に当ってくれよ、と言った。
この仰せを聞いて、小笠原佐渡守長重は、しきりに涙を流して、言う言葉もなかった。しばらくして、秋元但馬守喬朝だけが、ありがたい仰せを承りましたと言って人々は御前を退出されたということである。
【大赦の事】
同月四日に、また意見書を奉呈して、大赦の件をとりあつかった。これは、詳細に御下問があったからである。同月七日からは、私の長女が疱瘡にかかったので、家に籠っていた。
同月三日、大御台所御他界の御事があったので、近習衆をしてこのことを告げ知らされ、同月二十日に、大赦の件を仰せ下された旨を、また告げ知らされた。
去年の冬から、疱瘡が江戸に流行して、将軍薨去の御事も、この病気のためというほどであるから、小児はいうまでもなく、老人も若人も、この病のために死をまぬがれた者は少なかった。それで、この年の五月高い場所にのぼって、家々の端午の節句の幟を見るに、二、三町の間に、幟を立てたところは、わずか一、二カ所しかなかった。ところが、自分の一男二女は、この病にかかり、それぞれ危険な症状があらわれ、治療のしょうもなかった。とかくするうちに、皆無事で、病が癒えた。これは天のたすけがやったようなものだと、ある医者が言った。大赦を行なわれる旨を告げて来たのは、長女がこの病気にかかりはじめた時にあたっていた。しかしながら、これは雷雨解散の応報なのであろうか。そうなら、有難い国恩によったのであろう。
この時に前代綱吉公の時の裁判の記録をとりよせられて、毎夜、夜明け方までこれを御覧になり、その罪を赦免されたもの、およそ九百五十六人。そののち間もなく大御台所の御死去によって、前のようになさり、御みずからその罪を赦免せられたもの、およそ九十二人。天下の大名以下の家々において、罪を赦されたもの、およそ三千七百三十七人に及んだ。五月一日、将軍宣下の儀が行なわれて、同二十三日にまた天下に大赦を行なわるる旨の仰せがあった。この時もまた、前のように御みずからその罪を赦免せられた者、およそ二千九百一人。天下の大名以下のおいて罪を赦されたもの凡そ、千八百三十一人である。そのうち、大名以下の家々で赦免した五千五百九十九人のことは、当徳川家が世を治められて以来、かつてこうした恩赦はなかったところである。
はじめ天下の大名以下に仰せ下されたところ、この事は前例がなかったので、仰せにしたがって行なう旨を申しあげる人もなかった。重ねてその事の仔細をくわしく書いて呈上せよと仰せられたので、この時になって、めいめい仰せにしたがって行ない、その事の仔細をも書いて呈上した。すべてこれらの事どもをくわしく書かれて、詮房朝臣を通じて自分に下賜された。このことは、かねて申しあげたことがあったからであろう。
これより後になっては、断罪のこと、奉行所においてはかり定めたところを記した裁判記録をとりよせられて、御みずからそれを御覚になり、さてその後でわたくしのもとへ下され、各人の下に、わたくしの所存を書いて差しだすように仰せられ、わたくしがはかり定めたところが、かねてのお考えと違うところがあれば、重ねてまたわたくしの所存をくわしくお聞きになって、その後にその罪刑を決定された。むかしから今まで、これほどまでに万民をあわれまれた例は、まだ聞いたことはない。また将軍宜下のことによって大赦が行なわれた時には、町々にいる博徒や鳶の者などの無頼漢のこと、女芸者、遊女などの妓女の類を禁ぜられる制条を出された。これらのこともわたくしが申しあげた案であるので、そのことを仰せ下された草案の写しを、詮房朝臣を通じてわたくしに下さった。
二月二十一日、前代綱吉公の近習の人々のことを仰せられ、三月七日に、今後は万石以上の人々は皆従五位下に叙せられるとの仰せがあった。この日、前代綱吉公の御時に、美濃守吉保、右京大夫貞らにおあずけになっていた人々を帰され、それぞれに宅地を下賜された。
【大赦】綱吉政権下に於ける「生類憐みの令」廃止とそれに伴う同令違反者の赦免(遠流・処払いの解除、闕所の返還など)のように、政権の代替わりに際して、綱吉における悪政とされるものを実質的に正した。次の大赦の事も同じ。
正徳六年の春の末から、上様(家継)はまた御病気になられ、御薬もききめがなく、四月三十日の午後四時頃に、おかくれになった。日の暮れ頃に、前代家宣公の御遺言にしたがって紀伊殿を第二城に迎え入れられ、翌五年一月に、昨夜おかくれになった旨の発表があった。
【註】家綱は正徳六年(一七一六)三月、病の床に臥し、四月三十日に死去した。
(略)十二日に、中の口にある、わたくしの部屋をお返しした。このころ詮房、忠良等の朝臣をはじめ、近習の人々がことごとくみなその職をやめさせられた。
詮房、忠良等の朝臣が今まで承っておられた職掌は、時代が隔たると、どういうことかわからなくなるだろうから、そのことをここに書いておく。神祖家康公から第二代の御時までは、奉書連判衆などというのは、その官は五位の諸大夫にとどまり、その禄も少なかった。第三代の御時、二条第に行幸があった頃から四品にし、侍従になされたことなどが起こった。その頃に、堀田加賀守正盛朝臣は、はじめの間は奉書連判衆になされたが、間連なくその職をやめさせられ、御側に近侍していて、老中の人々に仰せ下される御旨をも、また老中の人々が申しあげることなど、この人を通じてなされた。この御代に、大老、若年寄衆などの職掌も始まったのである。第四代は、御幼少で御代を継がれ、老中の人々が御政務を輔佐せられたので、その後は、正盛朝臣のような職掌の人はなかった。第五代の御時、牧野備後守成貞の朝臣は、藩邸の御時からしたがっておられたので、以前の正盛朝臣の時のように、老中にも仰せをも伝え、申し告ぎもなされたのであった。
その後に、柳沢出羽守保明(吉保)が、御家號を許され、御名字を下さって、四位の少将になされ、甲斐の国主になってからは、老中は皆その門下から出て、天下の事は大小となく、保明朝臣の思うままになり、老中はただかの(吉保)朝臣のいうことを外に伝えられるだけで、御目見え(御成)などということも、一月の内にわずか五、七回にも至らなかった。
ついで前代家宣公が御代を継がれ、老中の人々を毎日召し出し問われることなどもあったがこの人々は、もともと世の諺にいう「大名の子」であって古の道を学んだ事もなくて、今のこともよく知らず、長年仰せ事を伝えただけで、前に記したように、天下財政の有無さえ知らぬほどであり、まして機密の政務については知る筈もなかった。それで上様の明敏さに恐れて、前後の返答に窮されることは、度々なので、世の常の事もまず内々に詮房朝臣を通じて、御考えをおっしゃり人々の意見が一致するのを待たれて、そののちに御前に召して、仰せ下された。
筑後守従五位下源君美 正徳六年丙申五月下旬筆を絶つ。