素堂歌文(出典未詳)
津山の住推柳子のもとへ赤井氏より我友芭蕉の翁か絵かきて、みつから賛せるを送らせたまふに、二月中句瓜をすゝむといふ唐哥の心をとりて句につらね、報せられしを、感吟にたえす、予をしてこれに申せとの仰ことあるにより、金
玉の声に瓦石をもつて答ふるならし。
いつはらぬはせをの絵とやきさらきの 瓜の花見て心うこかす
総武之間かつしかの隠士
素堂稿
推柳句文
とし月芭蕉翁の手跡をしたひ侍りしこゝろさしを赤井公にきかせたまふて、ひめ置せ給ひし、自畫自讃の一幅をくたしひぬ。
桃隣の撰集に入し瓜の花の句をしるしてゑかける風情、又よにまれなるものなり。見るにめさむる心地して朝夕身をはなたす、外にたくひも、もたせたまはぬにめくみ給し御心さしの切なること、身にあまり、ありかたふおほえしまゝ、つたなき一句をつゝりて友部氏まて奉るならし。
推柳上
きさらきに瓜の花見る恵かな
【註】桃隣 『俳文学大辞典』
本名・天野勘兵衛。通称藤太夫。芭蕉の縁者だが関係は不明。『炭俵』で活躍した。許六を芭蕉に紹介したのは桃隣。彼は、芭蕉没後元禄9年になって師の『奥の細道』の後をたどり、『陸奥衛』を著した。
露川「蕉翁自画賛解」
正徳丙申とし、みまさかや推柳子の亭に遊ひて、蕉翁の手跡を見る。夕にも朝にもつかす瓜の花とや。けに、あさかほの哀、タ皃のまつしきにもよらす、歓然として、此華の本情を尽す事、凡口に及ましや。廿余年の後、自重を感して、
ふたゝひ泪を蝋紙のうへにおとし侍る。
名にしあふたねうしなふな瓜の花
三月
月空 露川居士
【註】露川(ろせん)『俳文学大辞典』
沢市郎石衛門。別号、霧山軒・月空庵。伊賀友生の産。名古屋札の辻住。数珠師。寛保三年(1743)六月二十三日没、八十三歳。
初め季吟・横船に学び、元禄四年(1691)蕉門に帰したが、真に暗躍したのは隠居した宝永三年(1706)以後の後半生である。その間勢力の拡張と門葉の獲得とに狂奔して、行脚と撰集に浮身をやつし、野心のためには先輩支考との論戦をも辞せず、ついに「六十余ケ国を巡り其徒に遊ぶ者二千余人」と誇称するまでの一派を樹立した。しかし、それは量の問題で、その作風は平俗低調、真の蕉風とは縁遠いものだった。
草刈の道々こぼす野菊かな
露川懐紙 (岡田利兵衛氏蔵)