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素堂の俳諧論

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素堂の俳諧論
 素堂(信章)がいつ頃から俳諧を始めたかは明確な資料を持たないが、寛文七年(1667)二十六才の時に貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友の俳諧撰集『伊勢踊』が初出である。
 発句は本文に掲載してあるが、注目されるのは、前書の少ない『伊勢踊』の信章の句には、加友が「予が江戸より帰国の刻馬のはなむけとてかくなん」と認めている。これは素堂の職業上の地位か俳壇に置けるものかは分からないが、それなりの地位を確保していたものと考えてもよい。寛文九年(1669)には石田未得の子息未啄の『一本草』に入集している。素堂が北村季吟に師事したとの説が俳諧系譜や研究書に見られるが、これは否定できる。(後述)当時の江戸においての重鎮高島玄札や先の石田未得辺りとの接触も多いに有り得る。素堂が京都の清水谷家や持明院家から歌学や書を習ったという説もあるが、その時期などは定かではない。
  
 延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十回集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
 
 素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』
『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
 延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。
 
 素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。
 
 貞享二年(1685)に『白根嶽』を刊行した甲斐、一瀬調実には季吟の批点を示す史料がある。(『甲斐俳壇と芭蕉の研究』池原錬昌氏著。参照)調実は岸本調和門ではあるが、紙問屋という職業も幸いして広く著名俳人に接触した形跡が残る。天和二年暮れの大火事で焼け出された芭蕉を甲斐谷村に招いたとされる谷村藩国家老高山麋塒(伝右衛門)との交友も深い。
 素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、「二万の里唐津と申せ君が春 の句は仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』に言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。

 さて宗因の感化された素堂と芭蕉は延宝五年に『江戸両吟集』を翌六年にかけて京都の伊藤信徳を迎えて『江戸三吟』を興行した。
   梅の風俳諸国にさかむなり 信章 こちとうづれも此の時の春 桃青(『江戸両吟集』)
 素堂も芭蕉も共に貞門俳諧から出発した。素堂が『続の原』跋文や『続虚栗』の序文に於て「狂句久しくいわず」や「若かりし頃狂句を好みて」と云うように、俳諧は滑稽・遊びとして捉えていたようである。従
ってそれまでに培った知識を縦横無尽に駆使して作句した。季吟や宗因の影響で一時は談林風に傾斜したが、

 延宝六年から七年の号を来雪とし、長崎旅行を経て致任、翌八年来雪から素堂(本名)と改号した辺りからと考えられる。延宝八年(1680)素堂三十九才の時である。この年素堂は高野幽山『俳枕』の序文で自らの俳諧感を述べ、「俳枕とは、能因が枕をかってたはぶれの号とす」として中国唐時代の司馬遷の故事・李白や杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅遍歴を良として「されば一見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘して「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花咲かぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情け)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。これは後の景情の融合と情け(心)の重要性を説いている。

 素堂歿後の享保六年(1721)素堂の晩年の世話をした子光編の『素堂句集』には「弱冠より四方に遊び、名山勝水或いは絶れたる神社、或いは古跡の仏閣と歴覧せざるはなし」とあり、旅の豊富さを認めている。
 
 漢詩文を得意とする素堂は一派に属さず天和調とも云われる漢詩文調の句を多作する。この頃の素堂の句は「字余り」も多いが、これは余すことで詩情を余韻を良くし、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂んならではの高踏らしさの感動を顕しているのである。
 その頃芭蕉は信徳らの『七百五十韻』を受けて、天和元年(1681)『俳諧次韻』を出し、俳諧革新を進め、天和調の第一歩を拓いた。(『俳文学大辞典』)また新風を興す模索を続ける。天和三年には甲斐逗流の後其角の『虚栗』の跋を認め、貞享元年には帰郷の目的で「野晒し」の旅に出る。翌年江戸に戻るが、芭蕉は漢詩文調を脱する新風を興す手応えを感じていた。
 
 素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。

 『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。
……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
   昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望   ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和   歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
……人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。
   人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
 
 として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。

 これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於て、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。

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