◇天和1年 辛酉 1681 素堂40才
俳壇…一月、信徳ら『七百五十韻』に呼応して、七月、芭蕉ら『俳諧次韻』刊。十一月、来山『八百五十韻』刊。以後来山、大阪俳壇で確固たる地位を築く。
▽素堂附句、三月、『ほのぼの立』高政編。
芭蕉入集句と素堂の附句について。
枯枝に烏のとまりたけり秋のくれ はせを
鍬かたげ行霧の遠里 素堂
▼新編『芭蕉一代集』昭和六年刊。勝峯晋風氏著より(P431)
『二弟準縄』の脇五體の證句打添「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」「鍬かたけゆに烏の遠里」口傳茶話の事ありとあるが、此脇句附は尾張鳴海の蝶羅が『千鳥掛』に洩れたものを『冬のうちわ』に拾遺した其の一つである。加賀山代永井壽氏の許に真蹟を存する。
▼「枯枝に」の句について(『俳聖芭蕉』野田別天氏著明柑十九年刊)
嵐雪門の櫻井吏登の『或問答』に或人の間いに答えて、
今は六十年も巳前、世の俳風こはぐしく、桃青と中せし頃は「大内雛人形天皇かよ」或は「あやめ生り軒の鰯のされこうべ」斯る姿の句も致され候。梅翁(宗団)なんど檀休の棟梁として、枝になまきず絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も難かしがられ、桃青、素堂と閑談有りて、今野俳風和ぐる方もやと、三叟神丹を煉て、桃青その器にあたる人と推して進められしにより、然らば斯くに趣にもやと「枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮」の一句を定められし、是を茶話の傳と申すなり。云々
▼葛飾素丸『蕉翁発句説叢大全』
云ふ所の季吟、芭蕉、素堂新立の茶話口傳と云事いぶかし。素堂と季吟の対面はなき事なり。黒露に聞しが、是も右のごとく答へし。云々
【筆註】季吟は延宝三年に京都で信章(素堂)歓迎百韻の歌仙を興行している。
▽素堂。夏、『東日記』言水編。発句二入集。
法師又立リ芹やき比の澤の暮 言水
餅を夢に折結ふしだの草枕 桃青
いつ弥生山伏籠の雲をきそ初 露沾
狭布子のひとへ夢の時雨の五月庵 杉風
住べくはすまば深川ノ夜ノ雨五月 其角
王子啼て卅日の月の明ぬらん 素堂
宮殿爐也女御更衣も猫の聲 々
【言水】慶安三年(1650)生、~享保七年(1722)没。
年七十三才。本名、池西則好、通称八郎兵衛。大和奈良の人。十六才で法体して俳諧に専念する。祖父、父とも俳諧に親しんだ。言水は延宝四年(1676)頃、江戸に出て、素堂等と交流した。天和二年(1682)京都に移る。
▼芭蕉書簡、「木因宛芭蕉書簡」の木因添状の中所収。
山口素堂隠士をとふに、あるじ発句あり、芭蕉見て第三あり、是を桃青清書して贈れり、其の一簡なり。
秋訪ハゞよ詞ハなくて江戸の隠 素堂
鯔(ハゼ)釣の賦に筆を棹(サオサス) 木因
鯒(コチ)の子ハ酒乞ヒ蟹ハ月を見て 芭蕉
【木因】正保三年(1646)生、~享保十年(1725)没。年八十才。
本名、谷九太夫可信。美濃国大垣の舟問屋。江戸舟二艘、川舟七艘所有。西鶴との交流が深く、芭蕉との交渉は尾張国鳴海の知足主催の「空樽や」の百韻に芭蕉の「点」を請い、翌年、天和元年に東下して素堂・芭蕉と同席する。