▼〔素堂余話〕青海や太鼓ゆるまる春の聲について
散る花や鳥も驚く琴の塵 芭蕉
何れの年の吟にや未知
○泊船集に此句琴と太鼓と簫の畫の讃也と有り。
「うら若葉」に、此句の詞書曰、南山子の求め、畫は探雪也、琴と
笙と太鼓との賛望まれしに、
散る花や鳥も驚く琴の塵 芭蕉
見てひとつのあそばして山の鳥をも驚かし給へと有りて是中也、
左は、
青海や太鼓ゆるまる春の聲 素堂
右は、
けしからぬ桐の一葉や笙の聲 其角
中は
散る花や鳥も驚く琴の塵 芭蕉
▼句解に是は楽器の賛也。『劉向別録』に曰、
魯有善歌者 、廬公發聲清哀拂動梁上塵、
此心に通へり、彼の梁上の鹿を落花飛鳥に言ひ替へたる俳諧の手づま千煉を稱すべし。
○「説叢」に、
句解を難じて曰く、廬公は諷人也、楽器の事には非ず、此句は更更通はぬ也、然れども楽器の讃と眼の付たる所は當れり。其名を指さぬこそ可惜哉。此句ぼ楽器は必琴なるべしと。
琴の故事によらば、列子曰、瓠巴鼓琴而鳥舞魚躍。史記二十四巻樂書第二曰晋平公曰寡人所レ好者音也。顧聞之師曠不得已援琴而鼓之、一奏有玄鶴八集二廊門、再奏之延頸而鳴、舒翼而舞云々、此句意は琴
の賛にて、此琴や誰人の弾きけん、其昔しは清聲に梁の塵をもはらひ、清韵には鳥魚をも感ぜしめけんと琴の徳を稱せし也。散花は當季の入物ながら琴の塵と見て、一たび掻き鳴さば花も散り鳥も驚かさんと也。翁の句には手づまきゝし也。塵は落花飛鳥に云ひ替へたるとは如何にや。準らへし事とは聞えぬ文語也。又是程の事翁の手に聞かざらんや。千鍜にも非ず。琴を弾かば花も吹落ちて琴の塵とも見えんとの風情格別也。畫讃の句體也。去りながら、畫讃と云ふ慥かなる證跡有りや。何れの集にも見えず。然るに伊豫の松山にて何某の家に傳へし三幅對の軸物あり。信を求めて松山の何某に求む。
其讃
左太鼓 青海や太鼓緩みて春の聲 素堂
中琴 ちる花や鳥も驚く琴の塵 芭蕉
右笙 遂鳳凰 けしからぬ桐の落葉や簫の聲 其角
爰に於て予始めて歓喜す、所持の人名は聊か故障ありて略し出さず。云々。(『芭蕉句選年功』石河積翠園著)
(略)小林一茶の九州旅行めぐりはさして収穫を見ない。おそらく期待はづれたらう。同六年は「冬の月いよく伊豫の高根哉」を遠望して四国へ渡ったやうだ。遺稿の寛政紀行では翌七年の歳旦は讃岐の観音寺で迎へている。そこの浄土宗専念寺僧五梅は竹阿の門人なので、一茶は別して昵懇にして九州へ落る前にも寄食したと見えて、紀行に「已四とせの昵近とは也けらし」と記している。竹阿の供養塔もこの寺に建立されて居た。「塚の花にぬかづけば古郷なつかしや」は塔前低徊の吟である。宗鑑の一夜庵はその近傍だ。竹阿は一夜庵に杖をとめて師馬光の十三囘を遥拝し、琴弾山の麓十三堂の境内に芭蕉の早苗塚を造立した際の二つ笠の序文を書いたりしてゐる。一茶はさだめし懐旧の泪をすゝったであろう。伊豫の松山には曉臺門の樗堂がその庵を構へて居た。紀行に「十五日松山二塁庵に到る」
とあるだけだが、樗堂の事は後で書く。この松山に竹阿の「友の春」に出詠して一茶より先輩格の魚文が住居した。一茶は魚文亭で素堂、芭蕉・其角の三幅對を鑑賞している。これは其角の著『うら若葉』に掲出してあるもので、松山藩の家老久松肅山の需によって狩野探雪筆の太鼓と琴と笙との畫賛に、三人がそれぐその句を題したのだ。
青海や太鼓ゆるみて春の聲 素堂
ちるはなや鳥も驚く琴の塵 芭蕉
逐鳳凰
けしからぬ桐の落葉や笙の聲 其角
といふので、今は大阪の素封家土居吉郎氏の愛蔵する逸品である。一茶の鑑定書とも見るべき考証の禮讃の句を書添へて、それが二枚の紙に別々に認めてある。紀行には前文を逸するのでこゝに紹介しよう。
玉櫛笥二名の島に住ませる六々亭は、亡師も休もりたまはりし家にしあれば、やつがれもこたびはた筑紫のかへるさ訪ひ侍りきに、こや鳥が鳴吾妻ゆもきゝつたひたる三軸のありて、とみにおろがみたいまつるに、あが、ねぎごとのとゝなへる日にぞありける。
正風の三尊見たり梅の宿
右 東都墨水散人 一茶 華押
とあるが、『うら若葉』には芭蕉の句を前に掲げて前文があり、左、素堂右、其角の断りが附いてゐる。一茶は別紙に「是は三幅對の配り違アリ」と注意したのは、『うら若葉』を参照してこれを真蹟と見たる証左である。(『日本文学講座』「一茶研究」勝峰晋風氏著)
【筆註】 この三幅對については元禄七年の項にも関連記述がある。