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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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目には青葉山郭公はつ鰹 

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目には青葉山郭公はつ鰹 
 山口素堂資料室編

上記の句は素堂のもっとも有名とされる句である。
その素堂は俳諧者の中でもその足跡を最も誤り伝えられている人物である。その誤りは数多くここでは割愛するが、出生から青年時代までの定説は目を覆うばかりである。また全く関与していない甲府濁川浚渫工事責任者され(『甲斐国志』)、その架空事績が過大解釈されて、以後土木業の神様に祭り上げられてしまった。これが現在でも罷り通っている。
さて「目には青葉」の一句であるが、素堂の発句の中でも最も愛されている句には違いないが、素堂自身が特別にこの句を採り上げてはいない。
この句の解説は、山梨県の俳諧においての第一人者、清水茂夫先生(故人)の解説を紹介するが、私は前書きの「鎌倉にて」に興味があり、鎌倉まで数度訪ねて素堂句の詠まれた場所や背景を探ってみた。その結果、素堂が俳諧を鎌倉材木座光明寺において裏山からみた海岸を詠んだものではないかと推察できる。またその風虎の父は陸奥国岩城平七万石の城主忠興。

(『江戸新道』延宝六年)
蕉風俳諧の先駆者 山口素堂 清水茂夫氏著

この句には「鎌倉にて」という前書がついている。延宝六年といえば、素堂三十七才あったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終っているが、實は最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたことが、手腕のあるとところで、それと警戒なリズムとによって有名な句となった。初鰹を上リあげた点も人気を博する所以であろう。当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉とともに、檀林俳諧に熱中していたのである。
素堂と内藤風虎(ないとうふうこ)陸奥国岩城平七万石の城主
山口素堂&北村季吟&内藤風虎

生年:元和五年(1619) 没年:貞享二年(1685) 年六十七才。
風虎は寛永十三年(1636)に十八才で従五位下、左京亮に叙任。寛文十年(1670)素堂二十九才のおり、風虎(内藤頼長・義概)は父忠興の隠居により、五十二才で陸奥国岩城平七万石の城主になる。
俳諧作品の初出は『御点取俳諧俳諧百類集』。北村季吟・西山宗因・維舟らと深い交流が見られる。又和歌や京文化へのあこがれも強かった。
素堂は通説では致任して市中から不忍池畔の池の端に住居を移し、寛文年間初期から、風の江戸桜田部の「風虎文学サロン」の常連であったと諸研究書に記されてある。風虎の父、忠興は大阪城代を勤めた時期もあるが、文人としての活動は不明である。素堂が風虎の文人交友者を通じて文人の道に入ったことも推察できるが、寛文十年頃素堂は未だ何れかに勤仕していたのである。素堂が生まれてから寛文七年の初出『伊勢踊』までの歩みは不詳部分が多くあり定かには出来ないが、何れにしても内藤風虎と素堂の関係解明が必要である。風虎の文人としての活動は息子露沾に引き継がれるのである。
風虎の別邸は鎌倉にあり、素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は鎌倉で詠んだものであり、年代から押しても旦那光明寺の裏庭もしくは風虎の別邸で詠んだ可能性が高い。
又素堂は水間沾徳を内藤家に紹介したと伝える書もある。延宝五年の風虎主催の『六百番俳諧発句合』に素堂も参加してその中の句「茶の花や利休の目には吉野山」は、長年にわたり諸俳書に紹介されている。

山口素堂と内藤露沾(ないとうろせん)
 生年:明暦元年(1655) 
歿年:享保十八年(1733)  
 年七十八才。
本名内藤義英。陸奥国岩城平の城主内藤義概の次男として江戸赤坂溜池の邸生まれる。(素堂十三才の時)家中の内紛により延宝六年(1678)蟄居を命ぜられ天和二年(1682)二十七才の折り退進、麻布六本木に住む。
素堂歿(享保一年)後、二年(1717)の夏素堂追善興行『通天橋』では序文を書して素堂との交友の深さを知る。露沾の門人、沾徳・沾圃・沾涼なども素堂の周りの俳人である。又芭蕉とも交友深く、素堂・芭蕉・露沾の吟もあり、共通した諸俳書にその名が見える。
素堂序文 元禄五年(1692)『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)
 ここに素堂の数ある序文のうち元禄五年(1692)の『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)の序文を見てみる。
 素堂 九月、『一字幽蘭集』水間沾徳編。内藤露沾序。
  『俳林一字幽蘭集』素堂序あり。    

「岩城之城主風虎公所撰之夜錦・櫻川・信太浮島此三部集」

   「俳林一字幽蘭集ノ説」
   素堂著 
沾徳子甞好俳優之句遂業之來撰一字幽蘭集儒余于説幽蘭也應取諸離騒而除艾蘭之意我聞楚客之三十畝不為少焉雖餘芳於千歳未能無遺梅之怨矣斯集也起筆於性之一字而掲情心忠孝仁禮義智始終本末等總百字之題以花木芳草鳴禽吟蟲四序當幽賞風物伴載而不遺焉何有怨乎叉原斯集之所従来前岩城之城主風虎公所撰之夜錦櫻川信太浮島此三部集。愁不行於世也仍抜萃自彼三部集若干之句副之句之古風時世妝之中其花可視而其未實可食者盡拾之纂之其左引證倭歌漢文而為風雅媒是編者之微意也可以愛焉従是夜錦不夜錦浮嶋定所櫻川猶逢春矣雖然人心如面而不一或是自非他謾為説誰知其眞非眞是各不出是非之間耳若世人多費新古之辯是何意耶想夫天地之道變以為常俳之風體亦是然而不可論焉沾徳水子知斯趣之人也
  為 素堂書 佐々木文山冩  
【読み下し】
 沾徳水子は、甞って俳優の句を好みて遂にこれを業とす。ちかごろ一字幽蘭集を撰びて予に説を求む。それ幽蘭なるは、まさにこれを離騒に取りて艾を除き蘭長ずるの意なるべし。我聞く楚客の三十もことに少しとなさず芳せを千歳に余すといえども、未だ梅をわするゝの怨み無きことあたはず。その集や筆を性の一字に起こして、情心・忠孝・仁禮・儀智・始終・本来総て百字の題を揚げ、以て花木・芳草・鳴禽・吟中四序、まさに幽賞すべき風物を伴び載せてこれおわすれず。何ぞ怨有らんや。又その集のよりて来る所をたずぬるに、さきの岩城の城主風虎公撰したまふ所の夜の錦・櫻川・信太之浮嶋この三部の集、世に行なはざれしを愁いてなり。すなはち萃して彼の三部の集より若干の句を抜きてこれに副るに、古風、いまよう姿の中、その花を視るべくして其のミ実食すべきはこれを拾い尽くして、これを纂め、以てその左に倭歌漢文を引證して風雅の媒と為す。是を編める者の微意なり。以てめでつべし。是により夜の錦、夜の錦ならず浮嶋も所を定め、櫻川猶春に逢がごとし。しかれども人の心面の如くにて一ならず。或は自らを是とし他を非なりと謾る説を為す。誰かその真非真是を知らん。各是非の間を出でざるのみ。しかのみならず世人の多く新古の辨を費やす。これは何の意ぞや。想ふに、それ天地の道変を以て常とし、俳の風体もまたこれに然り。寒に附き熱にさかる時の勢ひ、自ら然ることを期せずしてる者なり、強いて論ずべからず。沾徳水子その趣きを知る人なり。これが為に素堂書す
【文山】
佐々木池庵の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。
江戸の書家で兄玄龍とともに活躍する。
【沾徳】
寛文二年(1662)生、~享保十一年歿。年六十五才。
はじめ門田沾葉、のち水間沾徳。江戸の人ではじめ調和門調也に師事し、調也に随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りし、同藩邸の常連である素堂の手引きで林家に入門、また山本春正、清水宗川に歌学を学び、同門の原安適と親交を結んだ。貞享二年(1685)頃立机、素堂を介して蕉門に親しむ。

『沾徳随筆』に、素堂の逝去に対して、
山素堂子、去る仲秋みまかりぬ。年行指折で驚く事あり、予を入徳門(湯島聖堂)に手を引き染めて四十年、机上の硯たへて三十年、今に持来りて窓に置く。云々。

『沾徳随筆』
俳諧随筆。享保三年(1718)稿。素堂追悼句文掲載。
 
 どうであろうか。当時一流の俳諧人の序文を書すことで素堂の地位と名声の高さを窺い伺い知る事ができる。
この幽蘭集を編んだ沾徳を素堂は磐城平城主内藤風虎(義概)に紹介して沾徳は内藤家に仕える事となる。風虎の父忠輿の娘(実は風虎の兄弟の美輿の娘を養女とする) は上諏訪の高島城主内藤忠晴(俳号路葉)に嫁いでいて、諏訪内藤家も代々俳諧を嗜み、頼水―忠恒―忠晴―忠虎と活躍している。頼水は江戸斉藤徳元と交流があり、忠晴は芭蕉の第一の門人とされる其角に師事している。其角は素堂と親しく素堂の紹介で芭蕉の門人となる。忠虎は前記の水間沾徳や風虎の子露沾との交友が深い。露沾や沾徳は素堂に非常に近い存在である。こうした事も素堂の文人としての地位の高さを示している。

素堂……『一字幽蘭集』発句四入集。沾徳編。
河骨やつゐに開かぬ花ざかり  素堂
一葉浮て母につけぬるはちす哉   〃
魚避て鼬いさむる落葉哉   〃
茶の花や利休が目にはよしの山   〃

【註】… 合歓堂沾徳。『江戸市井人物事典 』北村 一夫氏著。
帯程に川も流れて汐干かな
折りてのちもらう声あり垣の梅
などの句でしられる合歓堂沾徳は、京橋五郎兵衛町(現在の八重州口六丁目の内)に住む通称水間治郎左衛門という刀剣の研師である。飛鳥井雅章が和歌のことで問題を起こし、岩城平に左遷された時、沾徳は俳諧の師でもあり城主である内藤露沾に選ばれて御伽衆として雅章に仕えた。雅章は配所に三年ほどいて京都に帰ったが、その時沾徳に「汝必ず和歌に携わるべからず。只俳諧のみ修業すべし」と言い残した、(『俳諧奇人談』)
沾徳は気骨のある人で播州顔赤穂の大高子葉(源吾)、富森春帆(助右衛門)神崎竹平(与五郎)、茅野涓水(三平)などの門人がいる。赤穂浪士の遺文中に俳句が多いのは沾徳の力に大いに預かっている。

【註】佐々木文山……佐々木玄龍の弟、江戸の書家。享保二十年(1735)歿。年七十七才。
【註】〔俳諧余話〕……「佐文山の戲書」(『近世奇跡考』巻の二)
佐々木氏、名は襲、字は淵龍(エンリュウ)文山と號し、墨花堂(ボククワドウ)と稱す。
俗称百助、玄龍の弟なり。西の窪に住す。志風流に厚く、兄玄龍とゝもに、書を以て名高し。ゆゑに都鄙神社仏閣の扁額、皆書を文山にもとむ。性甚だ酒を好み、醉裏筆をふるへば殊に絶妙なり。世に醉龍の後身と云。榎本其角は玄龍に書を学ぶ。ゆえに文山ともしたしく、酒友の交りふかし。一日(アルヒ)文山富豪の主人〔割註〕一説に紀文と云」及び其角と花街に遊び、酒たけなわなる時、揚屋の主人、文山が書名高きを知りて、春山櫻花畫ける屏風を出して賛辞を乞。文山筆をとりて、此所小便無用と書す。主人これを見て頗る不興の色あり。其角筆をとり、これにつぎて花の山と書。つひに俳諧の一句となる。
 此所小便無用花の山
主人喜び、つひに家寶とす。其頃あづま童の口さがなきが、此所小便無用佐文山とたはぶれいひけるとぞ。此事、世に傳へて風流の話柄とする。
文山享保十年乙卯五月七日病て歿す。享年七十七。芝増上寺塔中浄蓮院に葬る。

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