人間 浅川巧
徳巧ならず
巧は数え年四十二歳でこの世を去った。短過ぎる左である。その短い一生にあって、巧は林業技術者として多くの優れた美雪残し、更に、朝鮮民族が長い歴史の中から育てた工芸に対しても、卓越した研究成果を挙げた。
然し、それらにも増して特筆すべきは、崇高ともいうべきその人間性にあった。農林学校時代の友人で、のちに巧の義弟(先妻みつえの弟)となった浅川政歳は、農林学校在学中の巧について、雑誌『工芸』第四十号(浅川巧追悼号 丁九三四年三月)で、次のように述べている。
巧君は在学当時から確に特色の有る男として其の存在を認められ、尊敬され親しまれて居た。彼は演習(筆者註・軍事演習)などの有る時、指揮刀などを持って得意がってゐる仲間に向かって「下らない男だ」と云ったやうなことを洩らした事があるが、この気持は一生涯を通じて持ち続けてゐたやうに思ふ。
巧君は只仕事を熱愛した。自分の仕事については彼らしい考へを持ち、それが如何に尊き仕事であるかを理解してそれに没頭した。だから官吏としては物質上の不平も、地位に対する欲望も、凡そ下らないものだとして終り迄変わらなかった。巧君の偉かった一面だと思ふ。- 後略 -
巧と安倍能成
阿倍能成は旧制第一高等学校々長で、終戦後六・三・三制の新教育制度を採用した当時の文部大臣であり、その後、国立博物館々長や学習院大学々長などを歴任した。明治・大正・昭和三代を通じてのリベラリストであった安倍能成は、京城帝大教授時代的三年間、巧との交流をもつが、巧急逝後の昭和六年四月二十五日から五月六日にかけて都合五回、京城日報に「浅川巧さんを惜しむ」と題して巧への追悼文を掲載した。その中で安倍能成は次のように述べている。
巧さんのやうな正しい、義務を重んずる、人を畏れずして神のみを畏れた、独立自由な、しかも頭脳が勝れて鑑賞力に富んだ人は、実は有難き人である。 巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで露堂堂(禅語・何一つ隠すことなく堂々と顕われる様、出典『却外録』-筆者註)生き抜いて行った。かういふ人はよい人といふばかりでなくえらい人である。かういふ人の存在は人間の生活を頼もしくする。
- 中略 -
かういふ人の喪失が朝鮮の大なる損失であることは無論であるが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない。人類にとって人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらゐ、本当の損失はないからである。
この追悼文は、その後昭和九年(一九三四)七月岩波書店刊の中等学校教科書「国語六」に、長さを二分の一に締めて「人間の価値」と題して収録され、人々に感銘を与えた。
安倍はその後、自叙伝『我が生ひ立ち』(岩波書店刊)のなかで、この追悼文に触れ、「これは私の確信である。さうして今もなほさう思ってゐる」と述べている。
巧と安倍能成との交流は朝鮮工芸会を通じてのものであるが、趣味を語る会として発足し、のちに朝鮮工芸会として発展した。哲学者の速水溌、美術史家の上野直昭、三井物産社負高橋保清、この会は、兄伯教の提案によって昭和三年ごろ朝鮮会員には浅川兄弟を中心に、前記安倍能成の他に、メソジスト教会の音楽隊の世話役渡辺久書、朝鮮銀行員で新しき村の会員土井浜一、蜂谷吉次郎、市山盛推等の人々がいた。
東京帝大教授で植物分類学の権威中井猛之助は、戦後、国立科学博物館々長等を歴任したが、朝鮮の植物採集等を通して巧と親交をもった。彼は、巧の一周忌の追悼会の席上、巧の意志を継いで朝鮮の山林の緑化に努力することを誓ったが、三年後発刊された雑誌『工芸』の浅川巧追悼号には、「浅川巧君へ」の一文をよせ、巧の「こき下ろし」するとことわりながら、巧の人間性を赤裸裸に書いてその魅力を称揚した。
その他、自由教育の実践家の故に長野県を追われた赤羽王郎(本名一雄)や、陶芸家で「模様の作家」と呼ばれた富木憲書とも親交があったし、柳宗悦の弟子浜口良光は、巧の没後発刊された『朝鮮陶磁名考』の校正を担当した。
巧は、このような多彩な人々との交流を通じて、己れを高め、また人々に深い影響を与えたのであるが、これらのことにもまして、巧の人間としての偉大さを物語るのは、巧の朝鮮民衆との交流の仕方であった。
日清・日露両戦役前後から進められてきたわが国の半島に対する帝国主義政策は、明治四十三年八月の日韓併合をもって一応目的を達した。日本は朝鮮半島を植民地として支配することになったのである。
武断政治は、朝鮮人民の言論・出版・集会・結社などの自由を全て剥奪した。一方朝鮮民族を日本人化する同化政策が着々と進められた。
「土地調査事業」や「林野調査事業」「会社令」による朝鮮経済の植民地的再編成が行われた。一つの民族が、他の民族を力によって抹殺しょうとする不合理が進められたのである。民衆の抵抗は根強く、遂に一九一九年(大正八年)三月一日に爆発した。いわゆる三・一独立運動である。
大正九年五月(三・一独立運動の翌年)、柳宗悦は朝鮮を族行した。その時の紀行文「彼の朝鮮行」の中に、京城にいる彼の愛する一人の日本の信徒から、次のような便りをもらったことが書かれている。
日本人と朝鮮人とが信頼し合う真の平和は、宗教的に覚めて理解し合う道しか他にない事を切に思ひました。
私は始め朝鮮に来た頃、朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました。
朝鮮に来て朝鮮人にまだ親しみを深く感じなかった頃、淋しい心を慰めて朝鮮人の心を語って呉れたものは矢張朝鮮の芸術でした。私はいつもの祈りに、私が朝鮮に居ることが何時か何かの御用に立つ様にと云ふことを加へて淋しい心に希望を与へられてゐました。
『朝鮮の土となった日本人』の著者高崎宗司氏は、この「彼の愛する一人の日本の信徒」こそ浅川巧に相違ないとしている。続いて柳宗悦は
「彼は此友達に愛と敬意とを感じてゐた。殆ど全ての日本人が憎の的である時も、此友達ばかりは彼が住む町の全ての朝鮮の人達から、愛せられ慕はれて、その名を知らない者はなかった。」
と書いている。
巧は、訂分が朝鮮にいることが、日本人と朝鮮人が互に信頼し合う真の平和のために役立つようにと、いつも、神に祈っていたのである。
当時、朝鮮総督府は、日本人が朝鮮人の社会に入ってゆくことを嫌っていたが、巧は朝鮮の民衆の中に進んで入って行った。職場以外では常にパヂ・チョゴリ(朝鮮の民族衣装)をつけ、朝鮮の家屋に住み、なめらかな朝鮮語を使った。酒はマッカリ(朝鮮のどぷろく)しか飲まなかった。しばしば朝鮮人と間違えられ、日本語のうまい朝鮮人と思われていた。
巧と朝鮮の民衆との心の交流を示す逸話は数多く伝えられている。それらについて述べることは紙数が許さないが一つだけ紹介したい。
巧の亡くなった当時の職制上の身分は判任官の技手であり、月給は五級であった。当時の中等学校初任者程度の給料であったという。「俺は神様に金はためません」と誓ったという巧は、祖父四友の血をうけ清貧の人であった。その巧が、林業試験場職員で貧しい家庭の子女に奨学金を贈っていたと伝えられている。右手で行った善行を左手に知らしめないという巧の道徳的純潔さから、その数は明らかでないがかなりの数にのぼったらしい。弱者を見過ごせない道徳的性格と、朝鮮の人たちよりは恵まれていた自分の給料に対する頗罪の気持があったのではないかといわれている。
巧は、常に朝鮮の人々と心からの友人になりたいと思った。すばらしい陶磁器や民芸品をのこした朝鮮民族が、自信と希望とをとり戻して共に歩む日の一日も早からんことを祈った。
礼を大樹の下に習う
巧は、昭和六年(一九三一)三月十二日付で、次の様な手紙を義弟の浅川政歳宛に出している。
日一日と春らしくなる。
今度禿山の造林法に就いて新しい研究がはじまり、朝鮮林業界の大問題になりつゝある。
政府はこの不景気にも不拘、二十万円もの予算をそれに配布することになり、一方に又反対意見もあって面白くなってゐる。人事に閲したケソカには興味はないが、仕事の研究は随分有意義と考へて大いに奮闘してゐる。そのため此の頃東奔西走の態。
十五日頃帰宅。 三月十二日
政歳様 巧 忠州にて
この年二月から三月にかけて、巧は養苗についての票をするため朝鮮の各地をまわった。この手紙の文面によると、
三月十日には自宅に帰った。この時にはすでに風邪をこじらせていたが、風邪をおして職場の仕事や教会の用事などに忙しく立ち働いた。そして、三月二十七日、ついに急性肺炎のため床についた。病床で高熱にしみながら、柳宗悦に約束した『工芸』五月号のための原稿「朝鮮茶碗」を脱稿した。この間の事情について、柳宗悦は『工芸』五、昭和六年五月号誌1に浅川巧の絶筆「朝鮮茶碗」の後に、「編者附記」の一文をのせ、次のように説明している。
此号の為に朝鮮の茶碗に就いて、三月中に何か執筆してもらひたいと云う依頼を浅川巧君に出した。春の頃とて林業に従事する同君にとっては最も多忙な時であった。
原稿は正確三月三十一日に私の手許に届いた。併し見馴れない筆跡であって、令兄伯教君の手紙が之に添えてあった。
「弟は肺炎で今寝ているが、責任感の強い彼は四十度近い熱に冒され乍ら、此の原稿を断片的に書いた。未完成ではあるが、兎も角他人に清書して貰って一先ずお届けする。文章を然るべく訂正して欲しい」
越えて、翌四月一日夕、「病重し」の知らせに接し、取るものも取りあへず、その夜京都を立って挑戦に旅立った。
私はどうしても逢ひたかったのである。併し翌二日中夜汽車が大邸を過ぎた時、再び電報をうけて「巧二日午後六時死す」との知らせに接した。
まんじりともせず其夜を過ごし、清涼里に駆けつけた時、言葉なき骸(むくろ)が私の前に横たわるのみであった。心をえぐられる想ひである。
熱に悩み乍ら床の上で仰向きなったまゝ、私の為に書きつけてくれた此原稿は遂に絶筆になった。日付は三月廿九日であるから死ぬ四日前である。此事が死を早めた一つの原因であるかを想ひ、誠に済まない事をして了ったのである。こゝ挿入した写真も、一々奥さんに命じて其間にとらせてくれたものである。下書を見ると、病ひが既に重かった事が分かる。文字文脈共乱れ互に錯覚する。而も終り迄訂正し加筆し整理しようと努力した跡がありありと見へる。書き終って令兄を省み、「之以上書けないから、直した上兄さんの名で出してもらってもいゝ」と話した。原稿はそのまま直されずに私に送られたが、他人が清書したものに二三巧君の筆跡で訂正した箇所があるから、尚も目を通そうとしたものと見える。題と署名日附とだけを自身で書き終り、写真を添え、令兄の手紙を添え、遂に投函された。出し終った時、それを聞いて非常に安心した悦びを洩らしたと云ふ。そのまゝ病勢は進み再び立たず、四十二歳を以て此の世を去った。 - 以下略 -
巧はこのように人との約束をきちんと果して、昭和六年(一九三一)四月二日午後五時三十七分、この世を去った。数え年四十二歳であった。
葬式は一日おいて四月四日(土)午後三時半から、清涼里の林業試験場構内の樺の大樹の下で行われた。巧の友人浜口良光は、その模様を「夫子礼を大樹の下に習ふ」に似ていたろうと云った。
式の中で、聖書詩篇第二十三篇薦は曽田嘉伊智によって朗読された。曽田は「朝鮮孤児の父」として有名な人で、のちに韓国文化勲章を与えられた人である。
式が始まると同時に、空は急に墨を流したようになり、大雷雨がきた。それは、天がこの人の死に対して何かの意思表示をしたとしか思えなかったという。
白い民族衣装をまとった巧の遺骸は重さ約百六十キロの柩に納められ、里門里の朝鮮人共同墓地に朝鮮式に埋葬された。
巧の部下や近隣の朝鮮の人たちが競って奉仕を申し出、墓穴に入れた柩のまわりや上を、朝鮮歌の音頭哀しく、棒でつき固めた。
あとがき
『歴史にかがやく人びと』に執筆を依頼され、真っ先に頭に浮かんだのが「浅川巧」であった。十年程前、高崎宗司氏の『朝鮮の土となった日本人浅川巧の生涯』(株式会社草風館一九八七年発行)を読んで受けた感銘を忘れがたかったからである。
浅川巧は、株業技師として、荒廃した朝鮮の林野の再生に生涯を捧げ、朝鮮の人々の心を、工芸を通して深く理解し、「朝鮮の土になった」人である。浅川巧の生き方に一貫していたものは、人のために一生を捧げて悔いない無私の精神であった。
今日、地球規模の環境破壊それにともなう人類滅亡の危機が、切実な問題として叫ばれているが、浅川巧は、遥かな昔、生来の素直さに由来する直感的な鋭さで、文字どおり一所懸命に生きた日本人であった。国や民族や宗教といった人間を区別する垣根を心のうちに築くことなく人類の一員として愛に目覚めて、朝鮮の人々のために己を捧げた人、真の国際親善の実践者であった。
こうした浅川巧の生き方は、今日の我々にとって実に尊い指針であり、二十一世紀を生きなければならない小学生、中学生、若い人々に、人間への信頼を授けてくれる大きな宝でもある。
しかし、浅川巧について書こうとすると、その偉大さに圧倒される思いで、評伝など筆者にはとても無理であると思われ、力不足を痛感した。もっとじっくりと、時間をかけて取り組むべき課題であることを承知しつつ、なんとかまとめてみた次第である。
この稿を書くにあたっては、次のことを心がけた。
基本的には、前述の高崎宗司氏の著作を参考にさせていただき、兄伯教について述べるについては、すでに赤岡武氏の『浅川伯教』(『郷土史にかがやく人々』第十七集 青少年のための山梨県民会 議平成一年三月二十日発行)があるので、極力重複を避けた。また、つとめて客観的巌述したいので、引用文が多くなった。さらに、洩川兄弟の育った背景、五町田の風土や系譜についても紙数を多くあてたいと思ったが、まだまだ不充分で、今後の調査に待たなければならない点が多い。
最後に、日本民芸館学芸員の尾久彰三氏には、資料提供について格別の御便宜をいただいた。ここに記して御礼申し上げる。