景行天皇四十年(110)天皇は
倭武命(ヤマトタケルミコト)に詔勅して東海道十二道を始め、東夷追討を命じ給。依て吉備臣、建日子を副帥とし、比比羅木の八尋矛を賜る。
それより伊勢の大御神の宮に参詣し、伯母の倭日女に大御神の御神託に依て、宝剣(但し、天の叢雲の剣也)並に錦の御袋を授け給わり、尾羽張国、国造の祖、尾張源太夫穂明男命の家に入り座々て、一女岩戸姫と一夜の契り深く成り、七箇月十八日泊り、岩戸姫、身目美しき女成るに依て、美夜受日女と名を改め給。供に従いて討征追討の供とし、福地山高天原にて、東の大軍を焼討し、小室の宮守宮に、三七二十一日滞在中、美夜受姫、女子を産む。
此れを福地姫と名付け、高天原の天津諸々の大御神の総宮守司、福地記太夫に養育の守護を託し、東諸の国を鎮め平げ給う時、佐賀見より上総に御船は乗り越す途中、波荒し、天都大御神の崇成りと申し、后橘姫、海中に入り給えば浪静に成りて、御船は上総に上り給。
記太夫は熱都山の麓の四辻に宮を建築し、美夜受姫親子を保護す。
此の宮は四方より下り坂下の宮成るに依て、坂下の宮と申す(今日の 富士吉田市 大明見)。
倭武命は、東諸の国を鎮め平げ、二度、高天原小室成る新宮、坂下宮に帰り給。
其の夜、歌に日く。
「にひばりつくばをすぎて、いくよかねつる」
爾に其、御火焼の老人記太夫、御歌を続けて、歌に曰く。
「かかなべて よにはここのよ ひにはとをかを」
是を以て、其老人、記太夫を誉む。美夜受姫親子の養育保護、並に歌の功に依て、東総国造に任じ給う。
上総の小海耳男と、浜に浮き来たる御櫛を拾い、命の後を追て来たり。坂下宮の倭武命に、姫の櫛を捧げ給う功に依て上総の国造に任ず。亦命、后の橘姫の差し櫛を姫の霊とし、熱都山峰に御陵を作りて納め置き、台朗神(今日は風神社、お台朗様といい現存する)と祭祀す。此の神を萬の悪暴風鎮護の神と諾人崇祭祀す。
其より倭武命は、大伴武口、吉備武彦等を率て海(後世甲斐)の湖端を巡り、上毛より科野に越し、見野に出て尾羽張に至り、美夜受姫の兄、建稲種命に阿津毛、大湖の伊吹山に入り、毒霧に合いて病発し、尾張に帰り、美夜受姫に申して曰く、「此の宝剣を朕と思え、腹なる御子を安産し、生長を頼む」と詔して宝剣(但し、草那芸剣(草薙の剣))を美夜受姫に渡し、名残を惜みて別れ、伊勢に移るに及て病益々激し。依て蝦夷の俘を大神宮に献じ、吉備武彦をして京帥に奏せしめ、遂に能保野に崩ず、時に年三十也。日本武尊と諡す。明年五月五日、美夜受姫、男子誕生、長田王と名付く。<『探求幻の富士山古文献』>