出身地・官職
出身地について自らは触れていない、しかし周囲からは甲斐府中(甲府)との声も上っているが、『甲山記行』(素堂著)では亡母の身延代参の中で、「亡妻の故郷なればさすがに懐かしくと記し、府中で舅野田氏を主とす」と書く。
今一度官職について見れば、甥で格子になっていた黒露(雁山・守常)が素堂三十三回忌の句集「摩珂十五夜」の中で「ある高貴の御家より高禄をもて召されけれども、不出して処子の操をとして終りぬ」また「算術にあくまで長じ給ひけるも、隠者にはおかし」と記す。退隠又は隠棲はそれとして、市中に住んで居た所は組屋敷の中であると記す者も有り、官職についても御普請役(『俳諧二百年史』)と述べている人もいる。
誤った甲斐国志「素道」の項と以後の記述で見ると
名ハ信章、幼名ヲ重五郎、通称ヲ官兵衛マタ市右衛門、寛永十九年(壬午・1642)五月五日生。代々郷士の家柄で、父の代に甲府に出て商家を営み富裕となる。甲斐国巨摩郡教来石村山口の出身。土地の名をとり山口氏を称す。
後はほぼ同じ。
『甲斐国志』等では濁川工事で代官触頭桜井氏に対し「父母の国なる」(本当は妻の故郷)云々と言ったとある。
出身に付いても後世の人だが、舐空門の夏目成美が「随斎韓話」(文政二年刊)に
「素堂は甲斐国の産なり。酒折の宮の神人(註、飯田正紀)真蹟を多く伝へり」
と記すが、ここでは置く事にし、巨摩郡教来石村山口の事に触れておくと、素堂と同時期の親友でもあった芭蕉や、直弟子とされる馬光(素丸)が旅の途時に同地を経ているが、素堂の故地とは伝えていない。また後になるが寛政文化頃の教来石宿(下教来石村)の俳人塚原甫秋(彦平)やその子幾秋等は芭蕉には熱心であるが、同じ村出身であるとされる素堂には触れていない。同村の山口出身の素堂は先人と云う事になるのであり、現在の北杜市は素堂門に連なる俳人が活躍していたから懐旧談くらいは在って不思議ではない。塚原親子についても同郷の北原台・河西素柳についてももっと研究する必要がありそうである。
素堂の仕官先について
……夏の頃、長崎旅行に赴き越年する。
唐津での句をめぐって、(仕官先が窺える)
二万の里唐津と申せ君が春
「山梨大学研究紀要」
…素堂研究者の清水茂夫氏(故)はこの旅行の、二万の里……唐津の句をもって、素堂が主君との別れの挨拶句であるとしている。
「ところで信章は、延宝六年の夏には長崎旅行をし、翌年暮春ころ江戸に戻りました。そして程なく致任して、上野不忍池のほとりに隠居しました。
それまでは、林春斎に朱子学を学んだ信章は儒官として何処かに任官していたと思われますが、確証はありません。上に記した長崎旅行の際唐津まで赴いてつぎの句を吟じています。
二万の里唐津と申せ君が春
君が春は御代の春と同じで、仕官している唐津の主君を祝っていると考えますと、唐津に藩主にでも仕官していたのではなかろうかとも考えられま
す。しかしこの旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。
参考資料 『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
山口関と山口素堂
ここから北上すると、やがて国境近くの山口であるが、此処へ行くには別の道もある。
小淵沢駅から蔦木行のバスに乗ると、終点はすでに信州である。ここで国界橋を渡ると、また甲州路に出る。八ヶ岳の残雪を仰ぎながら、釜無川の右岸に添って、田んぼの中の甲州街道をちょっと下って行くと、じき山口である。右手には国道二十号線がすさまじく轟いているが、この街道はひどく閑寂で、路ばたの草に坐って煙草を喫っていると、何処かで雲雀が鳴いたような気がするという道である。
去年のことになるが、はじめてわたくしが山口を訪ねた時、小淵沢でバスに乗りそこねて、甲州街道の上道、つまり武田勝頼の敗走した古道を逆に歩いて行くと、初めての道は言うより長いもので、うんざりして、途中から村人に教わって左へ曲る間道にはいったのだが、七里岩の上の山中で道がなくなり、ひどい目にあった。無闇に歩いて、七里岩の岩間を捜して辿り下ると、釜無川がこの大岩塊にかみついている。わたくしはそこをかち渡る外に手はなかった。はじめはズボンも靴も脱いで、後生大事によちよち渡ってみたが、とうてい駄目だ。今度はズボンも靴もはいたまま、ままよとばかり驀進(バクシン)すると、腰までつかったが、足の滑ることのないに助けられてようやく成功することができた。山口村に辿りついて一軒の商家をみつけ、そこでパンを買って食った。一時間ぐらい休ませてもらって話を聞き、一時間ぐらいその辺を歩いたら、ズボンも靴も乾いてしまった。
さて、閑話休題。部落の北の外れ、道の右側に「鳳来山口関趾」という碑石が立っている。ごく最近のもので、据え方も不安定、文字もまずく、見栄えのしないことおびただしい。碑陰に「昭和四十三年秋建、為信長男二宮清造、八十四歳」とある。為信というは、二宮三八郎平為信と名乗った人で、ここの最後の関守であった。前に書いた天保騒動の時、一揆勢のため関を打ち破られたかどで謹慎を命ぜられたが、また返り咲いた実力者である。
佇んでいると、盛んに昔話をしたがる足腰の不自由な老翁が出て来て、自らを何度も宮沢重則と名乗りながら、わたしの名付け親は二宮為信先生だと誇った。
この老翁の案内で、道を距て西側の進藤積善家の管下に、この関所の門扉だったというみすぼらしい一枚が無雑作にしばりつけてあるのを見た。とてもひ弱な感じで、かりにも関扉といってかなり重要視されたという。記録には「女改め、男手形不要」とある。所有者ももてあましているようで、いずれ近く薪になることであろう。この外に昔をしのばせるものはなんにもない。
この関趾は、かくていずれも貧弱であるが、昔は国境を守るものとした。
ところで、この山口関址はともかく、山口村の大いに誇るべきものが一つある。それは山口素堂の生れ故郷だという一事である。
山口素堂(1642)通称官兵衛は、例の「目には青葉山郭公はつ鰹」の名吟で夙に知られた俳人で、葛飾派の祖と仰がれ、芭蕉も一目おいた大物であるが、そればかりでなく、すぐれた土木業者という一面があった。一例をあげると、元禄八年(1695)石和の代官桜井孫兵衛政能に招かれて、甲斐の濁川改修工事に挺身し、測量設計工事の監督など一人できりもりして、二ヶ年ほどでみごとに竣工、川尻の住民たちを災害から守ったという実績がある。甲府の蓬沢に庄塚というがあるが、これは当時の農民たちが、これに感謝して、桜井代官とともに生きながら祀ったいわゆる生祠である。
「産業事蹟」は
「元禄中、田園変して池沼と為り、多く卿魚を産するに至る。(中略)元禄九年。政能新に渠道を通じ、土堤を築くこと二千百五十間、其広さ四五間より六七間に至る。以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く旧に復す」
といい、ついで二人の生祠のことに言及している。生祠は今も存しているが、荒れている。佐藤八郎さんは鎌を持って行って、雑草を薙ぎ倒しながらそれを捜して歩いたという。
国界橋のほとりに「山口素堂先生出生之地」として、先の初鰹の句碑が立っている(現在は白州道の駅に移設)。新しいもので、それほど粗末なものではないが、この村として、これだけのことでは物足りない。何か恰好な施設を考えるべきだろう。
ところで、この村が素堂出生の地であることは誰も異存がないが、そのはっきりした根拠がてんでみつからないのは残念である。ここが屋敷あとだと名乗る家は数軒あり、先にわたくしがパンを齧った雑貨屋もその一軒であるが、みんな証拠は何一つない。甚だ物足りない気分であるが、しかし考えようによっては、それでもよいように思われる。誰彼の私有物とせず、村全体がそうであっていいのではないか。みんなの家が彼の生れ故郷だと思えばよい。それも愉快である。その愉快さを濁りなくいつまでも持続することこそが肝要である。