甲斐国志を固守する山梨の山口素堂履歴、素堂の出生と生家それに親族の新展開をここに示す。
(『連俳睦百韻』寺町百庵序文中)
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其ノ始メ河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞〔後呼レ佞翁)、町屋に下る。山口素仙堂太良兵衛信章俳名来雪、其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛後ち法體して友哲と云ふ。後ち桑村三右衛門に売り渡し婚家に及ぶ。其ノ弟三男山口才助納言は林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。其ノ子清助、素安、兄弟数多クあり皆な死す。其ノ末子幸之助佗名片岡氏を続ぐ。
雁山ノ親は友哲家僕を取立て、山口氏を遣し山口太良右衛門、其ノ子雁山也。後チ浅草蔵前米屋笠倉半平子分にして、亀井町小家のある方へ智に遺し、其の後ち放蕩不覊て業産を破り江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終る。
〔素堂 〕
名は信章、通称を松兵衛、太郎兵衛或は太郎右衛門。号は素仙堂、俳号ヲ来雪、のち素堂。寛永壬午年一月四日の生まれ。鼻祖が浪人して以来の家系で在ったが、親の代あたりで家運に恵まれ富裕と成った。家業は商家で有ったらしいが職種は不詳。次弟に家を譲り江戸に出て、林家の家塾に入って学ぶ。同門の人見竹洞は彼を評して「林門三才の随一」(「含英髄記」)と云う。官職に就いていたらしいが黙して語らず、上級武士としてのたしなみは多岐に亘り、漢学者として漢詩文に長け古典に通じ、連歌を良くし能書家でもある。以上が身辺より知られる処である。
〔参考 挿入『毫の秋』山口素安〕
執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや、往し年九月十日膏祖父素堂亭に一宴を催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
といひしは嵐雪か句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて
十日の菊よめ菜もとらす哀哉
かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す、百庵もとより素堂か一族にして俳道に志厚し、我又俳にうとけれは祖父が名廃れなむ事を惜しみ、此名を以て百庵に贈らむ思ふに、そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、たゝちにうけかひぬよつて、素堂世に用る所の押印を添て、享保乙卯の秋(二十年・一七三五)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ
山口素安