幸燈(こうとう)神社 唐土(からど)大明神) 山高
『武川村誌』一部加筆
天照大神の御妹にワカヒルメノミコトといって、女神であるが非常に勇ましい神様がおられた。ある日機屋で機を織っておいでになった。傍に天照大神(アマテラスオオカミ)が、これをご覧になっておられた。
すると、そこへ天照大神の御弟の凶暴さで有名スサノウノミコトが、血の滴る馬の皮を提げて現われ機屋をめがけて投げつけた。大神は、驚いて、天岩屋へ入り岩戸を立てて、おかくれになったが、ワカヒルメノミコトは女ながらも敢然とスサノウに組ついていかれた。しばらくの間、お二方の格闘が続いたが、やはり男の神様の方が強く遂にワカヒルメノミコトは、この世を去り給うた。
山高では、ずっと晋に、このワカヒルメノミコトと大己貴命(大国主命の別名)を合祀して、村の氏神とし祀った。その祀る神社を幸燈宮といった。幸燈とは幸日ということで、天照大神が万民を遍く照らすような恵みの光であるという。
山高氏
山高という集落ができ、幸燈宮が祀られてから、かなりの後、今の実相寺の付近に武田太郎信方の後裔で、土地の豪族山高氏が居を構えた。
そして氏神として武田氏の祖、新羅三郎義光を崇拝した。義光は源義家の弟で、生まれながらに、常人と異なるところがあった。義光が稚児のとき、父頼義は義光を伴い子の出世を祈願しに新羅神社へ参拝したことがあった。
新羅三郎義光
新羅神社というのは、昔神宮皇后が三韓征伐の時、新羅王家秘蔵の鎧、兜をぶんどり、園城寺へ奉納なさったのを、園城寺で寺の守護神として境内へ祀った神であった。この神社の神主が義光を見て「この子は立派な子だ。武士として円満具足の相をそなえている」といって抱き上げ、白あやに菱の模様のある打ち敷き布をかぶせてくれた。義光はこの布を、かぶったまま家に帰るまで、泣き声一つ出さずにすやすや眠り続けていた。これによって義光は新羅三郎と名付けられ、武田氏は菱を家紋とするようになったという。
山高氏(孫兵衛親重)は幸燈宮に、遠祖新羅三郎義光を合祀して、唐土大明神といった。これは彼が、先祖の義光を非常に敬っていたからである。新羅三郎の新羅は、唐の地にあるという意味からであった。
現在も、山高の氏神は、幸燈宮または唐土大明神といって祭神はワカヒルメノミコト、大己貴命、新羅三郎義光の御三方である(歌田昌翰稿)。