徳川家康 武川衆二十四士重恩之惣目録
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
天正十八年 庚寅(一五九〇)正月廿七日
武川衆二十四士重恩之惣日録(折紙)
「 御重恩之地
一、仁百表 馬場勘五郎
○ 馬場勘五郎、美濃守信春の子、民部信義をいう。
一、仁百表 曲渕玄長
○ 曲渕玄長、勝左衛門吉景をいう。
一、仁百表 青木尾張
○ 青木尾張、尾張守信時をいう。
一、仁百表 青木弥三左衛門
○ 同弥三左衛門、不詳。
一、八十表 馬場小太郎
○ 馬場小太郎、馬場信久の子、民部信成をいう。
一、八十表 横田(手)源七郎
○横田源七郎、横田は横手の誤り。横手源七郎信俊が柳沢家を継ぐに際
し、某氏の子を養って源七郎と名のらせ、横手家を嗣がせた。
一、八十表 米倉左大夫
○ 米倉左大夫、主計助忠継の弟豊継をいう。
一、八十表 米倉彦次郎
○ 同彦次郎、丹後守信継の長男清継をいう。
一、八十表 米倉加左衛門
○ 同加左衛門、忠継の弟満継をいう。
一、八十表 米倉彦大夫
○ 同彦大夫、忠継の弟利継をいう。
一、八十表 曲渕庄左衛門
○ 曲渕庄左衛門、吉景の嫡男正吉をいう。
一、八十表 曲淵助之丞
○ 同助之丞、吉景の長男で別家を立てた吉清をいう。
一、八十表 折井九郎次郎
○ 折井九郎次郎、市左衛門次昌の子、次忠をいう。
一、八十表 青木弥七郎
○ 青木弥七郎、尾張守信時の子信安をいう。
一、八十表 伊藤新五郎
○ 伊藤新五郎、伊藤玄蕃允重久の子、重次をいう。
一、八十表 青木勘四郎
○ 青木勘四郎、不詳。
一、八十表 曽雌民部助
○ 曽雌民部助、初名藤助、定政をいう。
一、八十表 入戸野又兵衛
○ 入戸野又兵衛、名は門宗、折井次正の兄、また折井次昌の姉婿。
一、六十表 柳沢兵部少
○ 柳沢兵部少、兵部丞の誤記、信俊をいう。
一、六十表 山高将監
○ 山高将監、宮内少輔信直をいう。
一、六十表 米倉六郎右衛門
○ 米倉六郎右衛門、主計助忠継の弟信継をいう。のち丹後守。
一、六十表 山寺甚左衛門
○ 山寺甚左衛門、名は信昌。
一、四百表 折井市左衛門
○ 折井市左衛門、次昌、米倉主計助とともに武川衆の領袖。
一、四百表 米倉主計助
○米倉主計助、丹後守宗継の嫡男、名は忠継。
折井市左衛門とともに武川衆の領袖。
成瀬吉右衛門
天正十八年正月廿七日 大久保十兵衛
日下部兵右衛門
<解説>
この年一月豊臣秀吉の小田原北条氏に対する宣戦布告があり、部下諸将に出陣準備を命じた。家康の息女は北条氏直に嫁していたので、その立場は微妙であったが、民政の頑冥な態度を怒り、秀吉に応じて出陣と決し、武川衆に出陣
を命じた。出陣の前に加増して士気を鼓舞したのである。
恩賞の額をあらわす表は俵の略用。ここでは廉米の現物支給であろう。石高は知行地で、俵高は現米支給である。高一石は米二俵であるが、五公五民の税率では納米一俵となり、万石万俵といわれる所以である。この目録の奉行衆に成瀬・日下部と共に大久保十兵衛が見える。武田遺臣であるが、民政の手腕を買われてこのように重用されたのである。