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徳川家康 折井九郎次郎次忠所領検地

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徳川家康 折井九郎次郎次忠所領検地
 解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
 
 天正十七年 己丑(一五八九)十一月二十一日
 
徳川家代官伊奈熊蔵が武川衆折井九郎次郎次忠の所領を検地し、従前の貫高を石高にして書立を交付する
 「甲州御知行書立
一 百四拾壱表壱斗四升九合六勺三才 北武田之郷内ニ而
一 五拾八表五升三勺七才      水上郷内ニ而
           
   合弐百俵 ○(黒印)
 右之分 可被成所務候 取高之外 田島上中下共二壱段二壱斗宛之 
夫銭有 右之分百姓請負一札有之 仇如件
  天正拾七己丑年 十一月廿一日
      折居九郎次郎殿       
    伊奈熊蔵(花押)○(黒印)
(埼玉県寄居町田中晴二家所蔵文書)
<読み下し>
(上略)
右の分、所務成さるべく候、取高の外、田島上中下ともに一段に一斗宛の夫銭これ有り、右の分、百姓請負一札これあり、仇って件の如し」
<解説>
伊奈熊蔵は、三河の人で、祖先は武田家に仕え、甲州流の行政方式に精しく、いわゆる地方功者であった。天正十七年、家康の命を受けて甲斐一国の検地を行なった。二月より開始したという。
折井九郎次郎忠継の所領のうち、北武田郷の分で一四一俵一斗四升九合六寸三才を検出し、水上郷の分で五入俵五升三勺七才を検出したので、右二郷分を合せると、まさに二〇〇俵となる。
当時の一俵は諸家譜の折井家譜によれば、「次忠、天正十一年四月二十六日甲斐国有野・折居両郷のうちにして五十貫文の釆地を宛行はるゝの旨、御朱印を下さる。十七年十一月二十一日、さきの釆地を二百石の所務に定めらる。
とある。熊蔵検地では五公五民で五〇貫文の田地から数二〇〇俵(一俵は大桝二斗)を貢納させ、これが高二〇〇石に相当する。この場合の貫高石高の換算率は一貫文が四石に当たるとするのである。文中に
「取高のほか、田島一段に一斗宛の夫銭有り。」とある実践とは地方凡例録に次のように説明している。すなわち「小入用夫銭の事、自身出ては差支えになるゆえ、村役人へ顧み人足貨にて出す、是を夫銭という。」と。思うに、小人用、つまり小額ではあるが公用でしばしば支出を要する費用にあてるため、予め一率に徹する銭のことである。

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