三枝雲岱翁傳 八十八歳
斎藤操氏著『地歴の甲斐』第2号第6巻 一部加筆
明治三十-戊成年(八十八歳)
米寿の祝いあり。
雲岱翁米寿の祀賀の宴は、はじめの蔵原(高根町)の孤月山浄光寺内鎧堂に設けられ、第二次祝賀宴は、甲府の旗亭開峡楼にて開かれた。
初めの宴は、宗啓手記に従えば
幸いに米寿の春を迎えしも座臥進退嘗て人を労せず。視聴また全きを得、钁轢として禿筆テ舐(なめ)り、老て益々牡なるを以て不肖等歓喜の余桜花爛漫の候、四月廿八日を卜し郡内知己朋友を鎧堂観音境内に招し、寿莚を張る、正に午後黒雲四方に起こり降雨となりしを以て堰を堂内に移す。賀客雨を冒し泥道を厭わず来会せられ満堂立錐の地なく席定まるや、翁自ら謝辞を述べ琴、次に来客祝辞、詩歌等あり、式は終りて酒宴に移り半切画寿盃餅を配し、各自喜びを尽くして散会せり。
と。その進呈の盃の中には、翁の作った
大御代に逢さへあるをおもひきや 年も八十ぢに八をそふとは
また
八ケ嶺に八束しらひけかきなでて 八十ぢ八とせをけさぞ迎ふる
なる二首の歌が書きつけてあつたといふ。
此の時招かれた人々は、小松益兼・清水啓三・玉川文梅・八巻善治・細田文蔵・成島榮懐・櫻井義令.以下百五十名程である。
甲府開峡楼に於ける第二次は、十一月十三日であって、蔵原より出でて、広く県内故舊会するに便を得るため甲府に於いて開かれたのであった。此の日好天、賀客陸続きと踵を接
し、夕刻開宴、翁自ら銀鬚を振りつつ温容謝意を述べ、盃及び額面(富峰図)を呈した。この時の招待人名は、八巻直哉・新海祐六・若尾逸平・佐竹作太郎・竹邨立己・八代秀雄・栗原信近等であつた。
参考資料
甲府市楼町 開峡桜主人 馬場粗三郎氏(昭和山梨自治大観)
甲州の誇りとする、奇骨の名画伯、三枝雲岱翁の第三女をその母とする馬場氏は北巨摩郡熱見村の舊家細田家に生れた人、齋嘉氏の三男で明治六年(1873)一月十八日生れ、三十八年(1905)六月、馬場山三郎氏の養子となり、大正三年(1914)七月家督を相続したもので、先代より料理業を継承して開峡楼と称し、爾来内外の装備を一新し、規模の宏荘また県下に屈指の大料理店として押しも押されもせぬ第一流であることは人の普く知る処である。
大正六年(1917)株式会社甲府料理業組合が設立されると、推されて之れに取締役となり、大正十五年(1926)組合の改組があって今日の組織となるや組合長に推されて組合強化の為に大にその力を発揮し、協調的の有力なる人材として業界に重きを為したことも人の知る処である。蓋し望仙閣・三省楼・開峡楼と云えば甲府市の三大料理店の名声を博したる家、しかも各特色あり、その長は他の模倣を許さざる鉄壁で揺るぎなき一流である。
近年閑峡楼の本館に続いて横町の繁華街に沿って洋館の大ホールを作り、玉突きの設備もこれを完成し、洋食に於いては正に県下第一を謳歌されている事もまた一般の知る処であって、観光都市としての甲府市の繁栄上から見ても、大甲府市実現に伴う社交機関の優秀なる存在として開峡桜こそ正に英名の如く峡の開発に相応せる大料理店である、而して氏は温雅の資、恭謙の質、然も常に研究する姿勢は業界の秀峯として愈々推称さる。