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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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早春の甲斐・信濃井上靖氏著

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早春の甲斐・信濃井上靖氏著
 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。
 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは 甲府市 に編入され、古 府中町 となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。
信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。
 信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の埠と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。
 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍艦に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。
 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。
 武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。
 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。
 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい二二蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたら
に流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。
 尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。
 その天竜川の流出ロを見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぽい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの吻とした表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。
 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。
 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。
 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に眠り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。
 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。
 伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。   (昭和二十八年三月)

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