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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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禅昌寺と恵林寺(『飛騨屋久兵衛』 追記 三、禅昌寺と恵林寺)

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禅昌寺と恵林寺(『飛騨屋久兵衛』 追記 三、禅昌寺と恵林寺)
 
下呂温泉寺住職、桐原東叔が、本文、第六章、武川家菩提寺について、の中で記載されている、勅願字龍澤山禅昌寺と、山梨県塩山、笛吹川のほとりにある名刹、乾徳山恵林寺との関連について、恵林寺資料第三巻によって付記したい。(略)
 
① 快川国師(甲斐恵林寺住職)
◇ 快川国師
 快川国師は、弘治三年(1555)から弘治二年(?)まで、恵林寺の住職を務め、後永禄七年(1567)再び恵林寺に入り、天正十年(1582)までの十八年間、武田家菩提寺の住職として、武田家並びにその家臣の禅道の教導に努めていたわけである。
 筆註…前文中傍線部分は、
快川国師は、弘治二年(1554)から弘治三年(1555)までか
 
◇ 快川紹喜について
 この快川紹喜国師の再度入山の前年、即ち、永禄六年に希菴玄密和尚が恵林寺住職として入山している。この希菴和尚は禅昌寺の第四代の住職である。希菴玄密和尚は、妙心寺三十八世となった名僧である。
 甲斐源氏長助倍紹は、希菴玄密和尚が恵林寺住職の頃は三歳である。それから二十年を過ぎて下呂へ来たことになるのであるが、その間の経緯や倍紹の祖先については、桐原氏も述べておられように定かではない。云々

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