武川町 中山砦(史跡と文化財『武川村誌』一部加筆)
中山は、釜無川の右岸に東西に横たわる標高八八七メートルの独立した山で、眺望は極めてよく、この山頂部に中山砦がある。
中世の煙火台を兼ねた山城で北を尾白川、南を大武川が流れる。かつて武川衆として活躍した武士団が拠点としたところである。牧原・三吹・山高・柳沢・横手・台ケ原・白須などの集落が、周囲の山裾や河岸段丘上に点在している。
頂上部の城郭は現在下三吹区有地として管理されており、一等三角点がある。
武川衆は、釜無川右岸のいわゆる武川筋における地域的武士集団で、武田信光の末男一条六郎信長の孫一条源八時信の子孫が武川筋の各村に分封したのに始まるという。
【武川衆】
戟国時代の武川衆は武田氏の一勢力として存在していた。天文十年(一五四一)の武田信玄による武田八幡宮本殿造営の際、七名の奉行の中に武川衆の中心的人物ともいえる青木尾張守満懸の名がみえる。また武川衆は永禄四年(一五六一)の信濃の川中島合戦においても武田左馬助信繁に従って活躍している。なかでも山高石見守親之は信虎、信玄に仕え、武川衆の随一とされ、永禄四年九月十日川中島合戦で武田信繋が戦死したとき、親之はその敵を討って信繁の首を奪い返してともに信玄に献上したと山高氏の奮戦ぶりが『甲陽軍鑑』に記されている。
永禄十年(一五六七)八月、武川衆は信濃国の生島足島神社において武田信玄に誓詞を出している。いわゆる「下之郷起請文」であるが、馬場・青木・山寺・宮脇・横手・柳沢などの名が見える。やがて武田信玄が天正元年(一五七三)に没すると、武田勝頼が家督を継ぐが、同十年三月、織田徳川連合軍との戦いに敗れ、武田氏は滅亡する。この時、武川衆は戦う機会を失い、主家の終わりを見送る結果となった。
こうした武川衆が、再び活躍するのは織田信長が本能寺の変で倒れたのち、徳川氏と北条氏とが甲斐国をめぐって激しく戦う時である。徳川家康はいち早く武川衆の有力者であった折井市左衛門尉次昌、米倉主計助忠継との接触を図り、自らの勢力下に置くことに成功している。
【徳川軍と共に】
天正十年八月十二日北条氏忠軍と黒駒合戦となり、武川衆は徳川方の鳥居元忠と共に戦って勝利している。一方、新府城に入った家康は若神子一帯に布陣する北条氏直軍と対峠していた。この時武川衆は中山砦を警固していた。新府城の前衛として重要な位置を占めていたのである。『甲斐国志』は諸録を参照して八月二十九日に
「武川ノ士花水坂ニ戦ヒテ、北条ノ間者中沢某ヲ討取ル。山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」
とし、ここを拠点として武川衆が果敢に戦っていることが知られるのである。
中山砦は『甲斐国志』によれば、
「孤山ノ嶺二万四、五拾歩ノ塁形存セリ、半旗二陣が平卜云平地又水汲場と云処モアリ」
と伝えている。
この砦は中山の南北に延びる尾根状の山頂部を利用して構築している。尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削り平らにして四つの小郭を形成している。山頂部には土塁に囲まれた三つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がって設けられており、弧状を呈している。さらに下って弧状の郭に沿って空堀と低い土塁がめぐっている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。
【馬場氏】
砦の支配者としては馬場氏が勤めている。馬場遠江守信保は、武田信虎に仕え、武川谷大賀原根古屋の城に任した。またその子駿河守信久は、信玄、勝煩に仕え、同じく根古屋城に任し、慶長十五年十月、八十歳で没している。信久の子右衛門尉信成も勝頼に仕え根古屋城に任していた。なお美濃守信房の次男助五郎信義は家康に帰属し、甲州白須、教来石、台ケ原の内において旧領を賜っており、やはり根古屋に住んで居た。
この根古屋というのはすなわち中山城の勤務を終えた下番の将士が体を休めた場所である。近くには江草(須玉町)の獅子吼城に対する根古屋も同じである。