甲斐国志以前「峡中紀行」荻生徂徠記 宝永3年(1706)刊
武川村に入る(峡中紀行)抜粋
小武川を渡り宮脇村に至って日が暮れる。土地の富豪の家に泊まる。この日は寒気が凄まじく、しかもこの村は山中にあれば、尚更なり。夜分庭に出て散策すれば、月痕頗る小さく、樹木蒼然たるを覚える。鬼神が人を落とす様に見える。独り「猛虎一声山月高し」を吟じて、庭に佇み立ち尽くす。暫くして部屋に入れば省吾はすでに寝入っていた。
十三日、宮脇村を出て牧ノ原を経て、金峰を右に見る。丑寅の方角なり。北は八ヶ岳なり。西北へ進み山高村に入る。道の側らに村人数人が平伏している。人々に問えば柳沢の郷人が迎えに出ていたと云う。
大武川
大武川を右に見て西に進む。川は鳳凰山より出て東南の方に流れ小武川と合流して、東の方を流れる釜無川に注ぐ。南の方は青木より、北の方は教来石に至る一帯を武川と呼ぶのはこれによって得たり。それにつけても吉保公十二世の祖、源八時信君、十二人の子息をこの武川の地に封じている。その在所を問えば答える。
三吹は艮にあり、六里にして近く、白須は子の方角にあり、山を以て境としている。横手は戌の方にあり、大武川を境界とする。ここからは僅かに三里ばかりなり。教来石は乾の方角にあり、上下二村有り。上教来村十二三里、下教来石村は十五六里なり。上教来石村に関所があり、山口と云う。則ち信州の境界である。(一部間違いがある)
新奥村は宮脇村の西南の山中にあり、その東北には馬場、東南に山寺、各々多少の間道あり。またここまで来る路中にあった、青木村・牧の原村・宮脇村を併せて、十二の士族が姓を受けた処であると。ふと見上げれば金峰は東の方角に転じていた。甲府城を出て既に五十里、甲州と信州の境にまで来てし
まっている。
駒ヶ岳・鳳凰山・駒ヶ岳も駕籠の前に近づいて来ている。これを望めば山の草木の無い処三里四方に及び、焦げた石を重ね上げたようで、岩の尖った角は一つ一つ数える事が出来るようで、山の形は勢いは猛々しく、これより前に富士山が微笑むようで、相向かう山容は似つかない。相伝に昔聖徳太子が飼育する甲斐の黒駒と云うは、この谷の水を飲んで育ったと成長したと云う。山上に祀る社もなく、ただ化物のようなものに出会った人も居て、故に地域の人は余程のことが無い限りこの山には登らない。
昔この山に登ろうした人が居て愚かにして勇なる人で、三日の食料を持って絶頂に登る。独りの老翁に出会う。翁は登った人にここは仙人の住む処で、その方などの来る処ではない。と、その髪を掴んで崖の下に突き放したれば、ぼんやりとしている間に自分の家の後の山に落ちたと云う。鳳凰山の由緒を問えば神鳥が来て棲む処故に鳳凰山と云う。字はまた法王とも書く、法王は大日如来なり。法王は奇瑞をこの山に表わし賜ふ事ありとも云う。また法王は東へ左遷された時に、この山に登り京都を望む故にこの名があるとも云う。徂徠はその弓削の道鏡の事を疑う。
柳沢村
あれこれ話をしているうちに、早くも柳沢村の入り口に至る。星山という古城あり。左の方に黍畑の中に、竹を割って板をはさんで立ててある処、これが先祖の柳沢兵部丞信俊太守の屋敷跡という。その西の方角十歩ばかりにところに、昔大きな柳の樹があり、これにより柳沢の名が生まれたという。その来も今は枯れて姿は見えない。