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白州町人物史 桜井義令氏 『白州町誌』一部加筆

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白州町人物史 桜井義令氏 『白州町誌』一部加筆
白州町横手 文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白
  
嘉永二年(1849)六月二十一日、旧駒城村横手九三番戸に桜井義台(名主)・伊志子の二男として生まれる。幼少のころから学を志して精進、特に国学に通じ和歌をよくし、歌の数三万三千、長歌七百首以上。武水と号した。
明治、大正、昭和にかけての大歌人の中に数えられ、また書家としても界隈に名をなした。
慶応三年(1867)十一月、江戸の国学者平出篤胤の門に入り勉学に励む。
明治三年(1870)、国政活用の建白二十六条、
明治四年(1871)、省費救民の建白八条を県庁に陳情、また甲府徽典館に於いて郷校取立に尽力したので賞せられた。
明治五年(1872)逸武両筋(逸見、武川筋)学校世話役拝命、

明治六年(1873)小学校訓導に任ぜられる。学制改革の建白を県庁に提出。また郡下の主な神社の神官に任命された。郡下の学校の訓導のみでなく、河口、野田、そして廉学校の教頭を歴任、

明治十九年(1886)徽典館の教員に擢でられ、
明治二十二年(1889)と四十四年駒城村長に選ばれ、
明治三十五年(1902)に菅原村長(官選)に就任した。
氏は謂謹に富み暇があれば近所の人々を集めて諸謹を交えて社会学的な話をするのが得意であった。また物を大切にし、墨など竹にはさんで使えるまで使い、紙など裏表に歌や習字を書き、決して無駄にはしなかった。
偉大な国学者であり、教師であり、神官でもあったし、行政者でもあった。庭先には菅原道真朝臣の祠を建てて敬まっていたのもむべなるかなである。
晩年は風流を友とし詠歌、書道で閑日月を送る。
昭和四年(1929)一月二十九日、八十一歳の生涯を閉じた。辞世の歌あり、
なきがらと世をばおはるかことのはを 
いくよろづたびくりかへしつつ
【註 参考資料】

巨摩岳麓集 : 国学者桜井義令詠草 (安福又四郎):1944|書誌詳細 ...

 

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