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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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白州先人伝 中山正俊氏 山梨の高等教育に献身

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白州先人伝中山正俊氏山梨の高等教育に献身
正俊号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手の旧家中山福俊・いせの長男として生まれる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤原多魔樹や竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門について漢学を学び、孔子の論語を懐から離さなかったほど常に精進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校の助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大正三年九月教員生活を終えた。氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰している。
現在甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺っている。また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが(【割注】調査の結果、甲府市の墓は消失している)、横手馬場原の共葬墓地にも分骨されている。  
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。
なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽くされ、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。

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