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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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甲斐駒ヶ岳開山 延命行者(小尾権三郎)の命の在り方

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甲斐駒ヶ岳開山 延命行者(小尾権三郎)の命の在り方
 藤森栄一氏著『剱岳の錫杖』より
(前文略)日本の開山者たちの苦心譚うち、わりと資料の残っているのは槍ヶ
岳の「播隆」と、「甲斐駒の延命」である。私もすでに書いたし、新田次郎君は、二人とも小説に仕上げている。が一つ気になることがある。
それは甲斐駒を拓いて、たった一年、登頂日の六月十五日を命日だと予言して、その日に死んでいった延命行者の命の在り方である。かれはたった二十一歳で死んだ。
それも一年前に駒ヶ岳へ登頂できた体が一年たったその日に、予言通りに死んだということは、すくなからず不審である。合理的な解釈は、自殺、「百年後に我が墓を掘ってみよ」と遺言したこと自体に、その信仰自身を百年の後につなぐ必要があった法類の考え方がかくされている。
延命行者はどんな思いで、この世を去っていったのだろうか。たった一つの手掛りがある。
それは、小尾権三郎、延命の本拠、長野県茅野市上古田の生地には、かれの自画像、法印などの他、さしたるものは残っていないのに、甲斐駒表口の横手村原の当時かれが開山の長い逗留の足だまりにした山田孫四郎家には、彼の遺言によって送られていった形身の品々がある。現在この道具は山田瑞穂さんの保管するところとなっていて、年々に四月二十一日、駒ヶ岳神社で開陳される。
 そのなかにいろいろな遺品にまじって、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と三つもの杵が遺存していることである。これは開山にあたって、かれ延命行者が、孤独というもっとも恐るべき敵との闘いの、もっとも愛情の深い道具だったことはたしかである。ちょうど、われわれ老兵が、いまもシュンクだ、ブルジュンスタットだという工合にすぐに戦のおわったピッケルを宝蔵しているのと同じである。
 たぶん、想像するに、その信仰登山の結縁のため、生きて入定して、この世から消えようとしているとき、人間としてもっとも思い出も深かった山田家に贈ったということには、何か人らしい思慕のかげもうかがえようというものだが。かれも「威力不動尊延命行者菩薩」などと強そうなおくり名(謚)をいただいてはいるけれど、土台は二十一歳の多感な青年であるはず。私にはどうしても恋愛感情に起因するものと思えてならない。
この辺の柳沢にのこる民謡「えんこ節」の文句の中にそれらしい残照もうかがえるのだが、長い追求もそのかいなく残念なことにその確かな資料はまだ握っていない。
 山の道具というテ-マに、もっとも日本的な道具を書いた。いま思うと、直接、岩登りにも、山登りにも使える道具とは思えないのに、もっとも大切な開山の道具と考えられていたところに、精神主義的な日本の登山の本質があったようである。

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