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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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甲斐駒ケ岳講 よもやまばなし

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駒ケ岳講 よもやまばなし
『甲斐駒ヶ岳の麓にて』ある山間地農民の20世紀 より
 
 隣家の北側併家の屋敷に接して立派な石の大鳥居が立っている。
これは信州諏訪方面駒ヶ嶽講の人々が明治21年に建てたもので、駒ヶ嶽神社参拝の第一の鳥居であった。
諏訪面から来た旧甲州街道は、濁川を渡った所で左に曲がるが、駒ヶ嶽神社参道は街並ら分岐して真っ直ぐに進んでそこから始まっていた。駒ヶ嶽講の人々は、参道の起点に鳥居を建てた。その立派さから当時駒ヶ嶽がいかに盛んであったかが覗い知れる。大鳥居にある石碑には「鳥居寄附表」と書かれているが、隅から隅までびっしりと細かい字が刻まれている。表面は風化して大変に読みづらいが、目を凝らすと「諏訪講社」、「諏訪茅野」、「諏訪玉野村」、「神道御嶽教」、「駒ヶ嶽大教会所」、「田中鉄弥」「田中重次郎」などと読み取れる。それらの兼社や人々の名前は、数えれば恐らく500はあるだろう。これを眺めていると、大勢の人々がこの鳥居の下を往来した当時の情景が目に浮かんで来る。
鳥居につづく駒ヶ嶽古道は某家の屋敷の西側を横切っている。昭和9年に鳥居の十メートル先の山側に幹線国道20号線が出来てからは、人と物の流れがそちらに移って、今鳥居の周辺には当時の面影は全くない。
なぜそこに立派な鳥居があるのか不恩義に思う人も多い。甲斐駒ヶ岳は、古くから修験者によって崇められていたようだ。それを「駒ヶ嶽講」として多くの人々に開いたのは、信州諏訪中州の弘幡行者という人で、幕末直前の化13年(1816年)のことと言われている。信州富士見高原や諏訪地方から見る甲斐駒ヶ岳の勇姿は、人々が信仰心を起こすにふさわしい荘厳さがある。
今、明野村の上手地区に、駒ケ岳講と摩利支天を削った大きな石柱があり、この場所からも駒ヶ岳の雄大な姿が望める。駒ケ岳は地元よりむしろこういった駒ヶ岳の勇姿が眺められる遠隔の地域でんなのはうなずける。
 毎年412日には駒ヶ嶽神社竹宇前宮、420日には横手前宮でお神楽が奉納された。この日はその村の代表がお参りして、翌日、村の講社一同でお祭りをした。
駒ヶ講は明治時代に最も盛んに行われたようだ。第二次大戦中にはまだ白装束に身を固めた多く修験者が駒ヶ岳神社の鳥居をくぐって行き来する姿が見うけられた。某氏の話では、子供の頃道で遊んでいると白装束の行者が通りかかり、戯れて「何かちょうだい」と手を出すと、飴玉を手のひらに載せてくれたという。駒ヶ嶽講は削戦後急速に衰えた。
 竹宇ヶ岳神社は、尾白川の小さな段丘上の山あいにある。こじんまりとした静寂な空間には、足下から渓流の音がかすかに聞こえてくる。神社裏手の岩山から落ちる細い滝に当たって修行する人の姿が今でも見受けられる。修行を積んだ行者は人々に尊敬され、心配事や病気など悩み事を聞いて祈祷し、お祓いをしてくれる。(中略)
 
駒ヶ嶽神社の歴史は古く、横手前宮の社伝では、堆略天皇の頃、出雲遷祀したという。祭神は、駒形権現観世音、摩利支天といわれている。
竹宇駒ヶ岳神社のずっと遅れて、駒ヶ嶽講が盛んになった頃からのようだ。

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