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山岳修験について 小淵沢町誌

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山岳修験について 小淵沢町誌
『小淵沢町誌』第四章 修験宗 第一節 修験宗の発達 一部加筆
 
 古代より山岳に対する伝統的信仰により、山は神がこもる聖地として山自体を御神体として崇拝し、また祖霊の行く他界として信仰されてきた。
神の宿る山へ人間が踏み込むことは神をけがすことになり、そのたたりを恐れて入山は禁忌されていた。しかし山を生活の場とする狩猟者の山に対する信仰と、仏教・道教などの外来宗教の影響をうけ、山岳で修行する者が現れて山を開いた。山岳における修行は山壁をよじ登り、断崖から宙づりに谷底をのぞくなどの修行をしながら指数し、洞窟で呪言を唱えながら冬を越し、春に山を降りるのである。神の住む山で修行し神と共に生活することにより霊力を授かり、超自然的な力を体得できるとされ、民衆は畏怖、崇拝した山岳におけるこうした修行者に帰依し、自然災害や病気などの生活不安を除くため修行者の呪験力に期待した。
 こうした山岳で修行し、呪術的活動をする宗教を修験道といい修行者を験者(ごんげんしゃ)または山伏ともいう。山伏は山臥とも称し、山を枕に寝食して修行生活をする意味が含まれている。修験道は奈良時代中期役小角によって開かれたとされている。
役小角
役小角は大和葛城山の修行者で、鬼神を使い、空中を
飛行し、葛城山と金峰山の間に橋をかけたと伝えられているすぐれた呪術師である。
 しかし修験道の祖師と仰がれたのは、平安時代末期から鎌倉時代に入ってからであり、同時に役小角による満山開基伝説、縁起が作られるようになった。山岳における修行の効験はすぐれているとされ、奈良、京都の学僧の中から好んで山に入り修行する者が現われ、密教の発展と共に修験道も盛んになり、やがて吉野、熊野を中心とする修験道場が、また修験道の宗派が形成されるにいたった。園成寺末の聖護院を本寺とする熊野系修験者を統轄する本山派と、中興の祖である聖宝が開いた三宝院を本寺とする吉野系修験者を統轄する当山派の二派があり、地方の霊山である立山、御岳、日光、彦山などの諸山もこの二派のいずれかに包括されるようになった。そして修験者の宗教活動により特定の信者との結びつきを強め、修験者は信者と専属的に加持祈祷、配札などをする関係をもった。こうした宗教活動範囲を「霞」といい全国に形成し、修験者は霞を物権的に支配し、これを他に譲渡することもできた。  
このように教団組織が整い、さらに教義が確立してくると、個々の修験者による蜂入から集団による峰入が行なわれ、その修行形態に宗教的意味が加わった。熊野を中心に胎蔵界曼陀羅、吉野を中心に金剛界亀茶経として修験道場を形成したように、修験者は山全体を畳茶経とする仏の世界に 入り、その山中の諸仏を拝しながら修行をするのである。
峰入り修行
この修行を峰入といい、これを成仏の過程になぞらえて十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、緑覚、菩薩、仏)に分け、それぞれに対応した十種、床堅(とこがため)、懺悔業秤(ざんげごうひょう)、水断、閼伽(あか)、相撲、延年、小木、穀断、正灌頂)の修行が行なわれた。この十界の修行は、罪悪を消滅し一旦死し、山中という胎内で再び生きかえり、再生してくるという信仰によるものである。
修験者
 修験者の姿は、頭巾、法螺、錫 杖、笈、金剛杖、肩箱、脚半、結袈裟などを身につけ、またそれは宗教的意味を持ち十界の成仏過程を表す象徴である。この様な仏具に包まれた修験者は、修行を守護する本尊であり、十界を備えた不動明王と一体になるとされる。こうした考えにより、修験者は不動明王の力で加持祈祷をするのである。
江戸時代
 江戸時代になると幕府の宗教統制が厳しくなり、慶長十八年(1613)修験法度が定められ、修験者は本山派、当山派のいずれかに属し、定住することを義務付けられた。峰入の修行形態も儀礼、形式化していき、峰入の回数は修験者の位階を定める教団秩序を維持する基準にすぎなくなっていった。修験者は定住化によって村内の宗教生活にかかわるようになり、鎮守の別当となり、また各種の祭りの導師を努め、憑き物落し、占いなどの呪術的宗教の祈祷師となった。
一方では、一般民衆の山岳崇拝の講を作り、先達をするなどの活動もした。こうして山岳の克己主義による修行の克己主義は薄れ、中世時代における情報収集、伝達の軍事的役割からも遠ざかっていった。
明治時代
 明治時代に入ると神仏分離政策によって、修験者は神職、僧侶、還俗のいずれかの選択を迫られ、明治五年修験道は廃止された。しかし、戦後聖護院が修験宗を設立するなど、修験諸集別の分派独立が行なわれた。
 当町における民間信仰、山岳信仰の中心である八ヶ岳には、赤岳、権現岳、阿弥陀岳、編笠、天狗岳などの山名や奥の院、石室、行者小屋などの地名のほかに石岡、湧水などがあり、修験者が登拝したと考えられるが、八ヶ岳を中心に活動した実態について明らかでない。しかし、当町内の墓地の宝塔、修験者の石像や木像、不動明王の仏像が現存していることから、その活動は盛んであったと考えられ、当町の修験寺院は旧小淵沢村に二〇か寺、上笹尾、下笹尾に各四か寺、松向に一か寺の二九か寺の多くを数えている。
 

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