甲斐駒ヶ岳開山史料 横手 当山派修験宗格院 本良院
巨摩郡横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
最近、南アルプスエコパーク登録以降、甲斐駒ヶ岳開山200年を謳った新聞記事や北杜市内では講演会や記念誌や関連書や企画が多くなってきた。
しかしそうした記事の中心は開山者権三郎とそれを支えた某家、神社の略歴が中心であり、権三郎の出生地の茅野市上古田村の遺跡も見直されている。
資料展もあったが、権三郎の活躍と某家の遺物が中心で、当時の宗教界や地域の守りごとなどが等閑にされている感がある。北杜市内には多くの駒ヶ岳信仰の遺跡や石造物も多く残されている。(調査中)
また、長野県の有名な小説家新田次郎氏の「甲斐駒ヶ岳開山」や考古学者藤森栄一氏の「甲斐駒ヶ岳開山甲斐駒ヶ岳の二人」は内容が大分違う。藤森氏の方がはるかに真実に近いと思われる。
しかし横手駒ケ岳神社(『白州町誌』)の由緒書は他の社寺に見られるように創作が多く挿入している。
江戸時代は特に農村の生業である場の山は地域の村々は厳しい掟や境など約束事があり、権三郎が入山したとされる文化年間には、近隣の白須村や台ケ原村・大坊新田村との訴訟ごともあり(白州町誌)、他国の人が簡単に山に入り、道を開くことなど難事であり、さまざまな他村との交渉や確認が求められ、役所の届け出や許可が必要であり、横手一村でしかも個人で他国人を住まわせ駒ケ岳を開山することなどは有り得ない社会情勢であった。
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕
巨摩郡(現白州町)横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
一、御祈願道場 但シ弐間半ニ弐間
本尊 不動明王
祭礼日十一月廿八日、護摩修行天下泰平国家安全今上
皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩 但シ護摩堂三間四方 石鳥居 高一丈
祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地
長十四間 横六間 此坪八十四坪
祭り十月廿四日
一、山ノ神社地
長拾四間 横六間 此坪七十四坪
祭礼 十月十七日
一、神明宮社地
但長拾四間 横六間 此坪七十坪
祭り日 三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間 横四間 二十八坪
祭り日九月九日
一、風神社地 長七間 横五間 此坪 三十五坪
祭 七月十日
一、水神社地 小社
祭礼 七月二十五日
一、上今井山神 小社
右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候 十一月二度目の亥の日
一、湯大権現 小社
同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院 宅 但八間半 五間
二 土 蔵 弐間半 三間
右駒嶽之儀者高山に御座候得ハ峰三ケ処ニ而御本地観世音菩薩也、中之岳ニハ大権現、奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候
以上
尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
慶応四辰年八月 日
巨摩郡横手村 駒獄別当
別納 本良院 ㊞
寺社御役所