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山梨県の偉人 高野正誠 ワイン産業の基礎を築いた

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山梨県の偉人 高野正誠 ワイン産業の基礎を築いた

山梨県広報誌『ふれあい』冬特集号 VoI47
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習生としてフランスヘ

   
 高野正誠(まさなり)は、1852(嘉永5)年、八代郡上岩崎村(後の祝村、現・甲州市勝沼町)に、神官・高野正吉の嫡男として
生まれた。
 1877(明治10)年春、県営の葡萄酒醸造所や勧業製糸場を造り殖産興業を推し進めていた当時の県令・藤村紫朗は、祝村に、葡萄酒醸造会社を設立し、資金を集め、青年2人を推挙すれば、フランスに派遣する旨を通達した。祝村は協議の未、受諾。豪農や地主などが発起人となって出資を募り、同年8月に大日本山梨葡萄酒会社(通称・祝村葡萄酒醸造会社)を設立。
株主に名を連ねていた正誠は、選挙によって土屋助次朗(後の龍意)とともに伝習生に選ばれ、同年10月、フランス船タナイス号で横浜港を出航。この時、1年でブドウ栽培とワイン醸造の技術を習得し、醸造器具の使用方法を学ぶことが2人の任務とされていた。

ブドウ栽培とワイン醸造の技術と知鼓を習得

 
 翌年開催されるパリ万博の事務官長として一緒に渡仏した前田正名(後の山梨県知事)は、2入にパリの知人宅で約1カ月問フランス語を学ばせ、その後、自身が懇意にしていたシャンパーニュ地方の街・トロワの植物学者であり苗木商でもあったシャルル・パルテに預けた。正誠らはそこで、もう一人、ブドウ栽培とワイン醸造研究の実務者ピエール・デュポンを紹介され、両氏から教え
受けることとなった。
 ブドウの剪定、挿し木法、品種改良をする際の接ぎ木法、摘果、収穫法などの実技と、品種の研究や生食用と醸造用の本質的な違いといった理論を並行して学び、昼は作業、夜は詳細なリポートの作成と、寸暇を惜しんで研修を重ねた。当初の帰国予定は9月だったが、ワイン醸造が始まる前の帰国はあまりにも無念だと考えた2人は、留学延長を願い出た。結果、延長分の経費は自己負担ではあったが、半年間の猶予が与えられ、仕込みから貯蔵法、新酒の蔵出しまでの一通りの過程に加え、シャンパンや他の果実酒、ビールの醸造法をも学ぶことができた。

日本初の本格ワインを醸造

 
 1879(明治12)年5月、帰国した2人は、故郷へ戻ると早速準備に取り掛かり、この年の秋、甲州ブドウを使った白ワインと、山ブドウを使った赤ワインを醸造。当時、日本ではワインの発酵に麹を用いていたが、帰国の翌年には、麹(こうじ)を用いない本格ワインを醸造した。また、正誠は醸造技師としてワイン生産に務める傍ら、自宅の蚕室を改造し、ワイン醸造の研究や全国から醸造を学びに集まる門下生の教育にも取り組んだ。さらに、大日本山梨葡萄酒会社が瓦解(がかい)する1886(明治19)年ごろからは、広大なブドウ園で栽培から醸造まで行う欧州的なブドウ園経営の必要性を説き、自らもその実現を目指すようになっていく。

ブドウ栽培の技術と醸造法の伝授にまい進

  1890(明治23)年12月、フランスで学んだ栽培技術や醸造法の詳細とともに、ブドウ園経営にも言及した400ページ超の大作『葡萄三説』を刊行。全国各地で講演を行い、後進の醸造家を育成するなど、黎明期にあったワイン醸造の発展に力を尽くした。
 こうしてワイン産業の基盤を築いた正誠は、1923(大正12)年、71歳の生涯を閉じた。
(記事監修)山梨大学名誉教授 斎藤康彦
 
参考資料

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