鳳凰山の歴史
『甲斐名勝志』 萩原元克編 天明三年(1783)一部加筆
地藏ケ嶽・薬師ケ嶽という山ありて、鳳凰山と峯続けり、これを三嶽という。麓の柳沢(現武川町柳沢)という所に宿る、山中に一夜伏せて翌日」また柳沢に帰る。諏訪の湖水見えて佳景なり。絶頂の岩の上に黄金にて鋳造した三寸ばかりの衣冠の像あり、これ奈良法皇の御影なりという。昔より動もすれば盗賊あり、この像を取り去らんとすれば、重きこと磐石の如し。故に盗み去る事を得ず、なお岩の上に有りとぞ。国人云う、むかし奈良法皇当国に流され給いて、この山に登り都を慕い給うより「法皇ケ嶽」と云うようになった。
西河内領奈良田(早川町)と云う所に、法皇の住み給いし跡とて、礎今も存せり。これ弓削道鏡ならんとぞ。予(編者)按に『続日本紀』に道鏡は下野国に流され、薬師寺の別当となりて終わる由を見れば、道鏡に非ざるべし。然れども何れの法皇と云う事を知らず。云々