<さあこれからが登山である。歴史と信仰豊かな状況が理解できる。しかしまた金が要るのである。> 一合目から三合目まで、現在の残っていりものはあるのか。 ●<一合目> 登山門ヨリ此二至ル行程三里余、茶屋四軒アリ、松杉ノ間ヲ穿テ荊辣ヲ排ヒテ登ル、二町斗リニ大日堂アリ鈴原大日ト云フ、享保三年(1718)ニ炎上セシゴト、木立村妙法寺ノ舊記ニ大日ノ像モ焼召レ候トアリ、傍ニ神明ノ社アリ、此地ヲ一合目ト云フ、 傳ニ云、(富士山は)山形穀ヲ盛ルニ似タルヲ以テ、一名ヲ穀聚山ト云フ、因テ路ヲ量ルニ「升目」ヲ以テシ、一里ヲ一合ト云フトナリ、然レトモ共實ハ是ヨリ絶頂迄七里斗リナリト云ヘリ。 ●<一合五勺> 一合五勺(目の字を省きたるは、諸人常に云う慣わしたるに従う末に絶頂を頂上と挙げるもこの例なり)鳥居アリ、少シク登リテ平地アリ、禅定院ト云フ、今寺廃シテ地名トナレリ。 ●<二合目> 淺間ノ社アリ、コノ地五町四方北室仙元堂ト云フ、小室浅間トモ云フ、上ノ浅間ト云フハ是ナリ、山中最初ノ基立ニテ富士ノ本杜タリ、然レドモ壮麗ハ吉田二及バサル事論ナシ、今ノ社ハ慶長十七年(1612)鳥居土佐守ノ本願トシテ、造リ替ヘセシ所ナリ、 ○社中ニ武尊(ヤマトタケル)ノ木像アリ、不動ノ如シ、左髪ヲ垂レテ左脇ニ挟ム、右手ハ敗失セリ、興福寺運珍圓浄作長二尺三寸五分、伊豆國走湯山ノ佳侶覚実覚臺内ト云フ者、文治五年(1189)造立ノ由背面ニ刻セリ、 ○女躰合掌ノ像アリ、開耶比売(サクヤヒメ)ナラン、興福寺定海寶月坊作長一尺六寸五分、覚実覚臺坊建久三年(1192)造立ノ由刻附アリ、 ○淺間ノ像一体、長一尺一寸古作刻字ナシ、 ○信玄自刻ノ座像一体、面不動ノ如ク、右ハ軍扇ヲ持、左ニ獨鈷ヲ握、 ○信玄寄附ノ古鏡一面アリ、経四寸七分、裏ニ四神ヲ鋳附ケ、八方ニ文字アリ、読カタシ、「不老鏡」ト號ス、雲霧ノ中ニ星霜ヲ経レトモ一点ノ曇ナシ、 社ノ西二「役行者ノ堂」アリ、役銭場也、(上に記す) 西ニ登レバ高サ教十丈ノ一片石、上ヲ行ク滑カニシテ歩シ難シ、石面ニ空地アリ、径二尺斗、深七八尺、御釜ト云ヘリ、是ヨリハ女人禁制ノ地ナリ、二町斗行ケバ道嗣神ヲ祭ル小屋アリ、此所ニテ金剛杖ヲ売ル、料八文ハ師職ニ渡シ、選キタル故ニ、無代ニテ杖ヲ受取ル、サレトモ割木ノ麁(アライ)品ニテ手ヲ傷ル故、別ニ直ヲ納レテ買ナリ、夫ニ数品アリ、貴ハ百文、賎ハ十六文、直ニ随テ精鹿長短アリ、長キハ六尺強、短キハ四尺樫、中道巡リ(事は五合目五勺の条に載せる)ノ杖ニ間斗、各火印アリ、摸出ス。 北口二合目役場(山上して帰りし杖の影を井美水にうつし、病疾の者に服せしむれば、速やかに療るとて行者とも尊重するなり。また賊難を除くといふ) |
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「隔掻録」富士山・浅間神社・有料登山・富士講行者<3>
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