<今では無料で富士山に登れるが、当時は至る所に通行税を徴収する仕組みになっていて、その金がなくて途中で引き返した事例もある。こうした金銭の授受はもちろん、幕府公認のことでもあった> ●登山までの記述 行者ハ南ニ登リテ北ニ降リ、北ニ登リテ南ニ降ルヲ御山ヲ裂クト称シ、扇ヲ以テ登ルヲ風ヲ招クト称シテ、雨ナカラ忌ム事ナリ、師職ノ家ハ吉田川口間(この間に大湖を隔て隣村にあらず)両村ニアリ、ココヲ投宿シ、山役銭百二三文ヲ出シ、祓ヲ修セシメ、 ○不浄祓ノ料三十二文、(師職の得分なり) ○二合目役行者賽銭十二文、(別当得分) ○金剛杖ノ料八文(山上に売る者あり) ○五合目三十二文(一六文は休息、一六文は吉田師職得分) ○九合目鳥居御摺十四文(此の地は駿州の分にて、役銭は吉田の得分なり) ○頂上薬師ケ嶽二十文、(一四文は駿州大宮司、六文吉田得文) ◎惣計百二十二文。 此役銭昔ハ山上所々ニテ出セシヲ、今ハ師職共一切ニ受取重キ役ニ算請シテ配当スト也、講人ノ煩ヲ省ク爲ナルヘシ、川口頼ミノ御師アル者モ、役銭ハ吉田ニ納ムルトソ、(吉田の御師八十六文川御師不詳) 強力ヲ雇ヒ、(雇銭四百文くらい)行厨寒衣草鞋等ヲ持シメ、馬ヲ買ヒ、(行程三里、駄賃二百文くらい)先ず、吉田村元仙ニ詣ス。(浅間を仙元と書くこと下に禄する。身禄派の行者、吉田口の師職などに用いる。川口には不用、身禄派種家なければなり) 吉田村浅間神社ノ社(二合目小室を上の浅間と云うのに対して、当社を下の浅間と云うなり)毅然タル大社ナリ。 祭神三座、瓊々杵命(ニニギノミコト)・大山祇命(オオヤマネギ)・木花開耶比此売命(コノハナサクヤヒメノミコト)、例祭四月上ノ申日、社記云、左京権太夫江間義時貞応二年(1223)ニ建立スト云リ、爾後造替ノ年紀不詳、元和元年谷村城主鳥居土佐守造立、鳥居家移封ノ後、秋元摂津守谷村ノ城主トシテ延賓六年(1678)修造、秋元家移卦ノ後、寄進普請トナリ、行者村上光清同心ヲ募リテ再建ス、享保十八年(1727)ニ創リ元文三年(1738)二落成ス、是今ノ社ニシテ殿字二書ク藤ノ丸ノ紋アルハ光清カ定紋ナリ、然ルニ近世光清派ハ曉星ノ如ク、 身禄派ハ朝日二似タリ、故ニ末流ノ行者ハ力及ハス、身禄派ノ行者志ヲ一ツニシテ造営ヲ謀ルト雖モ、身禄カ定紋ヲ以テ殿宇ニ押ストスルニヨリ、光清派ノ行者共不肯、是ニ因テ漸ク破壊二至ルニ似タリ、幣殿、評殿、本社、神楽殿、随身門、石額殿、左右十間、護摩堂、鐘棲水盤、石額殿、祓殿、御供所、神馬屋、外石玉垣縦四十一間、横三十七間、西隅ニ富士登山門アリ、匾額アリ、富士山ト書ス、天和二年(1682)朝鮮国春齋書ト欵(カン)アリ、前ニ鳥居アリ、神輿屋、末社八座、大鳥居高五丈八尺、柱間六間.是富士山ノ鳥居ニシテ当社ノ鳥居ニアラズ、額縦七尺五 寸横四。尺七寸、「三国第一山」ト書ス、寛永十三年(1636)二月曼珠院宮 無障金剛入道 二品親王良怒書トアリ、鳥居外末杜八座、石橋長一丈一尺二枚石ナリ、郷手洗川仁王門、金燈籠八封、石燈籠八十三封アリ、如此大社ノ再建スべテ光清カ力ナリ、髄身門ヨリ御手洗川マデニ十間、御手洗川ヨリ大門前マデ三十五間アリ、大鳥居ヨリ富士山頂マデ三百五十七間半アリト、駿河大納言様(徳川家康)御改 メニシテ定タル由、「採藥小録」ニ載夕リ、詣人ハ登山門ヲ出テ南行ス三里計ニシテ、左手ニ一堆邱(オカ)アリ、大塚ト云フ、塚上ニ武尊(ヤマトタケルノミコト)ノ小祠アリ、蓬拝ノ陣趾ト云フ、口碑ニ伝ル歌アリ、 「東路ノ蝦夷ヲ平シ此御子ノ稜風ニ開ク富士ノ北口」。 松林ヲ行ク事十一町計リガ間、諏訪森ト云フ、ソレヨリ十町計二シテ小坂アリ、御茶屋ト云フ、ソノ謂ヲ不知(ある日都留郡の領主小山囚家の妻女休息の爲に設けし故なり。下に極奥と云える所も同義なりと、果たして然るや否をヲ知らず) 是ヨリ東八町計ニ湧泉アリ、泉津トイフ、土人云、頼朝卿富士狩ノ時士卒ノ渇ヲ救ンタメ、浅間ニ祈誓シ鞭ヲ以テ岩ヲ鑿(ノミ・うが)チ、此水ヲ得ルト云フ、故ニ「仙端」トモ云フトナリ、按スルニ仙瑞ハ仙元ノ奇瑞ト云意ナルヘシ。マタ夜倍(ヤハイ)ノ水ト云フ、夜ニ到レバ水倍スト云ヘリ、此水流レテ浅間社内ノ御手洗トナレリ、(山上の本路頭を齊しく書し、岐路は頭を低く皆同じ) 道ヨリ西ニ入ル事十一町ニ、洞天アリ、胎内穴ト云フ、(世ノ人ノ所謂富士ノ人穴ハ駿河ニアリ)洞口径五尺計、入ル事四五丈計ニシテ三四方ニ折テ下ル、背向ニテ是ヨリ下リ平ナル岩上ニ立ツ、是ヲ子返リト云フ、頭上甚迫リ葡匐(ホフク)シテ僅ニ進ム、此所ニ乳房ノ如キ岩アリ、水滴リテ乳ノ出ル如シ、是ヨリ十丈斗ヲ行ケバ稍濶ク歩シ場シ、正面大日銅像アリ、淺間ノ本地佛ト云フ、産ノ紐ト云フ岩アリ、紐ヲ束ネタル如キ石アリ、是ヨリ奥闇フシテ入ル事能ハズ、蟻燭ヲ把テ仰キ宥レハ石皺盡ク胸肋骨ニ似タリ、淺間大菩薩出現ノ古跡ナリト云フ、洞上ニ大ナル石地藏アリ、傍ニ籠屋一字アリ、此二列ル者詣シ了レバ本路ニ返ルナリ、先へ掛越ノ道ナシ。 御茶屋ヨリ一里半ニ「遊興」ト云フ所アリ、四方石垣ニテ外形ノ如シ、廣サモ江戸ノ外形ホト云ヘリ。前ニ株木門アリ、(内株木門と云うは、両柱のみ郡にして内扉門木なし)ソノ中ヲ往来ス、茶屋一軒アリ、二町斗リ行ケバ姥子ト云フ所アリ、背ハ脱衣婆ノ草堂アリシト云フ、礎石今ニ存セリ、是ヨリ東五町斗ニ古松アリ、太サニ圓強、「自碧松」トモ頼朝旗掛松トモ云フ、西ノ方二古松五株並ビ立テリ、各五圓強、鳥居木ト云、淺間社中大鳥居ノ伐木ナリト云リ、 此辺眼ヲ盡シテ広野ナリ、土人裾野ト云リ、一歩一歩ヨリ高キ故ニ、地ヲ踏ム者ハ共高キヲ覧エサレトモ、遠ク望メハ川勢ヲナセリ、是ヨリ十町余ニシテ路初メテ高キヲ知ル、騮(リュウ・くりげ)ケ馬場ト云フ、漸山足ニ□(辶台)リテ鈴原トモ馬返シトモ云フ、郡内(都留郡一郡昔より郡内と称せり)山ノ高キモノハ鴈ケ腹摺ヲ伯トシ、三坂(御坂)峠ヲ仲トスレトモ、此地ヨリ測量スレバ、両山ハ叔季ノ如クナリト云フ、是ヨリ険路ニシテ、馬蹄不及、因テ馬返シノ名アリ。 |
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「隔掻録」富士山・浅間神社・有料登山・富士講行者<2>
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