<賓永四年(1707)山焼ノ事>
吉田村師職(富士浅間神社)田邊安豊ト云シ者、親見ル所ヲ記ス体載長歌ノ如シ、訓ノ施シカクキ所アレトモ、最實記トスベシ。
大元一気、明霊一徳水、開闢より、ふじの高根の、白雪は.くもらぬ御代を、てりそへる、恵みあまねき、日の本の、もれぬ誓いの、かずかずに、都留の郡は、千代かけて、末は吉田と、日に榮ふ、三国一の、大鳥居、山は元気、動きなき、豊秋津州の、かなめ石、しづめしづまり、金輸の、水きはよりも、湧出て、天地和合の、眞賢木は、ときには栄ふ、神垣や、
●頃は宝永、四つのとしの、十月四日、地震につき、湯花捧げて、神詫の、神吉こそは、有かたや、をし付陽の、方よりも、大火の難の、來るべし、二夜三日の、神事して、神慮すずめし、奉れと、神はあらかせ、たまひけり、
●さて霜月の、二十二(イ三)日、暮六よりも、地震して、五十度あまり、□(言訇)序と、暁よりは、数しらず、巳の刻頃に、成し時、当山南に、あたりつゝ、天より丸き、鐘程の、みえしより、黒煙山の、如くにて、鳴動しつゝ、みえしより、雷□(?)れも、集りて、一度おつと、肝つぶれ、酉の刻より、神鳴が、電こそ、しきりにて、戍の刻には、火焔もえ、火の玉天へ、あかること、戦慄て、皇しく、
●二十四日の、己の刻に、かすみの如く、薄けぶり、四方にかゝり、須走りは、石砂降りて、天火にて、焼滅びしと、きくよりも、当地俄かに騒動し、女子童ふためきて、こゝやかしこにさまよへり、戍の刻には大地震、鳴と光るはいやましに、
●二十五日は朝日さす、又昼よりはくもりつゝ、
●さてこそ二十六日よりくもりつゝ、六日より師官神主神前に禁足しつゝ相詰て、御山安全、天長久、地は万代の御祈祷に、西風出て黒煙も鳴も暫く鎭まれば、丹精無二の大祝詞に、近郷遠里の参詣は稻麻竹葦の如くなり、
●明日二十七日も、煙は高く、見へけれど、鳴も光も、やはらきて、日影照りそふ、大鳥居、砂の降らぬに、神詣、貴賎群集の、人心、よきもあしきも、ひたすらに、国は豊かと、祈念する、晦日の戍の、刻過ぎに、地震煙も、大きにて、火の玉上がり、焼け出る、
●されとも師走、朔日は、日の神朝より、奉拝す、
●二日は、同じ様子にて、
●三日の夜も、くもりつゝ、
●明日四日も、暁には雪降り白く見えけれど、又己の刻に地震して、夜半までやまず、火の玉は大きに出て皇しく、
●五日は殊に南風、昼過ぎまでは鳴動す、されども去るの下刻より、煙も鳴くも静やかに、
●六日七日は、朝よりも猶明らかに日の神の御影一入り有かたや。
●八日は地震も度々して、子の刻ばかりに大動し、火の玉なおも多ければ、千早振りしく神風に、寅の刻よりしつまりて、いよいよ高きふじの山。
●駿東郡足柄より富士山までは、村里も草木も見えず埋れて、みな黒山と成りぬれば、小川の水も絶え絶えに咽潤すほどもなく、人倫道路の煩いは、草木におかる露もなし。
●富士詣の人々は、お江戸高井戸八王子、谷村と聞きて上るべし。宝永山を見たき方々は、不浄ケ嶽(五合目五勺)を少し行き、女富士にてよく見ゆる、大山かけの巡礼は、荻野飯縄(相州愛好郡)三増越え、根古屋鼠坂(相州津久井郡)吉野まで、道程八九里出ぬれば、富士道中の印しには、忌服を払う注連かけて、火を改めて御宿する。誠の道は神と君、八百万も動きなき、永代のかたみなり。
●宝祚も隆座、大樹枯葉も徳當御代瑟瑟間々然?国む豊かに静まりて、常盤堅磐の美代ぞめでたき。
此時駿州須走村人家尽(コトゴト)く砂ニ埋レ今ノ村居ハ其ノ上ニ造リタルニテ、地ヲ深ク堀ル事アレバ、舊家ノ依然トシテアリ、砂ノ埋レタル事凡ソ三丈許ト云フ、都留郡ノ中モ須走二近キ山山砂ニ埋レ、今ニ至リテ草木不生、平地ト云ヘトモ耕作ノ地ナシ。
<庚申ヲ縁年トスル事、並参詣人数ノ事>
都留郡木立村(在富士北麓)妙法寺(日蓮宗)舊記ニ明応九庚申此年(1402)六月、富士へ道者参ル事無限、関東乱ニヨリ、須走へ道者皆皆付也云云、
「此記余ガ見シハ上一巻ヲ脱ス、下巻ハ文正元年(1466)ニ始マリ、永禄六年(1563)年終ル。因ニ云、此記ニ偽年号アリ、延徳二年(1490)ヲ正享二年、又ハ福徳二年トモ記ス、永正二年(1505)ヲ弥勒二年ト記セリ、
マタ天文十年ノ條ニ此年六月十四日武田大夫殿、親ノ信虎ヲ駿河國ヘオシ越召候。余リニ悪行ヲ被成候間、カヤウニ召シ候、去程ニ地家侍出家男女共ニ悦ビ満足致候事無限。信虎出家被召候テ駿河ニ御座候事ト見ユ、爰麦ニ無用ノ事ナガラ記ス。
カカレハ「庚申ノ歳」ヲ以テ富士ノ縁年トスル事、此頃既ニ然リト見エタリ。今モ年々ノ詣人、平均スルニ、吉田ロヨリ登ル者八千人、ソノ他ハ駿州ノ三ロヲ、合シテ是ニ相伯仲スト云ヘリ。
吉田村師職(富士浅間神社)田邊安豊ト云シ者、親見ル所ヲ記ス体載長歌ノ如シ、訓ノ施シカクキ所アレトモ、最實記トスベシ。
大元一気、明霊一徳水、開闢より、ふじの高根の、白雪は.くもらぬ御代を、てりそへる、恵みあまねき、日の本の、もれぬ誓いの、かずかずに、都留の郡は、千代かけて、末は吉田と、日に榮ふ、三国一の、大鳥居、山は元気、動きなき、豊秋津州の、かなめ石、しづめしづまり、金輸の、水きはよりも、湧出て、天地和合の、眞賢木は、ときには栄ふ、神垣や、
●頃は宝永、四つのとしの、十月四日、地震につき、湯花捧げて、神詫の、神吉こそは、有かたや、をし付陽の、方よりも、大火の難の、來るべし、二夜三日の、神事して、神慮すずめし、奉れと、神はあらかせ、たまひけり、
●さて霜月の、二十二(イ三)日、暮六よりも、地震して、五十度あまり、□(言訇)序と、暁よりは、数しらず、巳の刻頃に、成し時、当山南に、あたりつゝ、天より丸き、鐘程の、みえしより、黒煙山の、如くにて、鳴動しつゝ、みえしより、雷□(?)れも、集りて、一度おつと、肝つぶれ、酉の刻より、神鳴が、電こそ、しきりにて、戍の刻には、火焔もえ、火の玉天へ、あかること、戦慄て、皇しく、
●二十四日の、己の刻に、かすみの如く、薄けぶり、四方にかゝり、須走りは、石砂降りて、天火にて、焼滅びしと、きくよりも、当地俄かに騒動し、女子童ふためきて、こゝやかしこにさまよへり、戍の刻には大地震、鳴と光るはいやましに、
●二十五日は朝日さす、又昼よりはくもりつゝ、
●さてこそ二十六日よりくもりつゝ、六日より師官神主神前に禁足しつゝ相詰て、御山安全、天長久、地は万代の御祈祷に、西風出て黒煙も鳴も暫く鎭まれば、丹精無二の大祝詞に、近郷遠里の参詣は稻麻竹葦の如くなり、
●明日二十七日も、煙は高く、見へけれど、鳴も光も、やはらきて、日影照りそふ、大鳥居、砂の降らぬに、神詣、貴賎群集の、人心、よきもあしきも、ひたすらに、国は豊かと、祈念する、晦日の戍の、刻過ぎに、地震煙も、大きにて、火の玉上がり、焼け出る、
●されとも師走、朔日は、日の神朝より、奉拝す、
●二日は、同じ様子にて、
●三日の夜も、くもりつゝ、
●明日四日も、暁には雪降り白く見えけれど、又己の刻に地震して、夜半までやまず、火の玉は大きに出て皇しく、
●五日は殊に南風、昼過ぎまでは鳴動す、されども去るの下刻より、煙も鳴くも静やかに、
●六日七日は、朝よりも猶明らかに日の神の御影一入り有かたや。
●八日は地震も度々して、子の刻ばかりに大動し、火の玉なおも多ければ、千早振りしく神風に、寅の刻よりしつまりて、いよいよ高きふじの山。
●駿東郡足柄より富士山までは、村里も草木も見えず埋れて、みな黒山と成りぬれば、小川の水も絶え絶えに咽潤すほどもなく、人倫道路の煩いは、草木におかる露もなし。
●富士詣の人々は、お江戸高井戸八王子、谷村と聞きて上るべし。宝永山を見たき方々は、不浄ケ嶽(五合目五勺)を少し行き、女富士にてよく見ゆる、大山かけの巡礼は、荻野飯縄(相州愛好郡)三増越え、根古屋鼠坂(相州津久井郡)吉野まで、道程八九里出ぬれば、富士道中の印しには、忌服を払う注連かけて、火を改めて御宿する。誠の道は神と君、八百万も動きなき、永代のかたみなり。
●宝祚も隆座、大樹枯葉も徳當御代瑟瑟間々然?国む豊かに静まりて、常盤堅磐の美代ぞめでたき。
此時駿州須走村人家尽(コトゴト)く砂ニ埋レ今ノ村居ハ其ノ上ニ造リタルニテ、地ヲ深ク堀ル事アレバ、舊家ノ依然トシテアリ、砂ノ埋レタル事凡ソ三丈許ト云フ、都留郡ノ中モ須走二近キ山山砂ニ埋レ、今ニ至リテ草木不生、平地ト云ヘトモ耕作ノ地ナシ。
<庚申ヲ縁年トスル事、並参詣人数ノ事>
都留郡木立村(在富士北麓)妙法寺(日蓮宗)舊記ニ明応九庚申此年(1402)六月、富士へ道者参ル事無限、関東乱ニヨリ、須走へ道者皆皆付也云云、
「此記余ガ見シハ上一巻ヲ脱ス、下巻ハ文正元年(1466)ニ始マリ、永禄六年(1563)年終ル。因ニ云、此記ニ偽年号アリ、延徳二年(1490)ヲ正享二年、又ハ福徳二年トモ記ス、永正二年(1505)ヲ弥勒二年ト記セリ、
マタ天文十年ノ條ニ此年六月十四日武田大夫殿、親ノ信虎ヲ駿河國ヘオシ越召候。余リニ悪行ヲ被成候間、カヤウニ召シ候、去程ニ地家侍出家男女共ニ悦ビ満足致候事無限。信虎出家被召候テ駿河ニ御座候事ト見ユ、爰麦ニ無用ノ事ナガラ記ス。
カカレハ「庚申ノ歳」ヲ以テ富士ノ縁年トスル事、此頃既ニ然リト見エタリ。今モ年々ノ詣人、平均スルニ、吉田ロヨリ登ル者八千人、ソノ他ハ駿州ノ三ロヲ、合シテ是ニ相伯仲スト云ヘリ。