河西南村(輝雄)氏 武川渓谷に遊ぶ 実相寺の桜 萬休院の松(現無)を詠む
『山梨の文学』山梨日日新社刊より抜粋 一部加筆
四十代の働き盛りを甲府に過ごした香南が参謀本部に勤務している明治末、笠井南村 本名輝男)は南巨摩郡中富町に生まれた。大東文化学院(現大東文化大)本科で土屋竹雨に師事し、たちまち頭角を現す。同校卒業の一九三六(昭和十一)年、報知新聞社の漢詩懸賞募集に応募した「乃木将軍歌」が一等に入選。その詩作が大きく評価された。卒業後は、長野県旧制上田中学校、大東文化学院、山梨県立の高校教諭、山梨学院大学教授などを歴任し、多くの学生たちに漢詩文を指導してきた。学校での勤務と同時に数多くの詩作を行い、『抱撰集』・『渭樹江雲』・『笠井南村詩紗』などを残している。県内各地を吟行し、地方の風物を詠じた多くの作品を残している。
武川渓谷に遊ぶ
報じ来たる老樹、花着くること多しと。
実相寺辺に酒を沽(か)って過ぐ。
東道の主人、能く客を飽かしむ。
花筵、怪しむ莫れ高歌を縦(ほし)いままにするを。(略)
紅霞、爛漫たる万休寺(院)。
標出す蒼蒼たる偃蹇の松。(略)
花に非ず、酒に非ず、其の趣を同じうす。
唱和せん、淵明、乞食の詩。(『抱撲集』第三巻天陰集)
武川村にある、神代桜と舞鶴桧を訪ねたおりの作。花見の時期に、好きな酒を用意して出掛けたものと思われる。「東道の主人」とは、道案内の人、招待してくれた人、との場合、寺の住職を指すとも考えられ、人々との交流が目に浮かぶ。楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
香南と南村、ともに中国の詩人に学び、学校教育で漢詩文を教授し、自らも詩作する文人として、山梨の地に大きな足跡を残した。 (溝口克己氏著)