皇太子・徳仁(ナルヒト)親王家
『別冊歴史読本』「日本の名家・名門 人物系譜総覧」一部加筆
皇太子・徳仁親王 (一九六〇~)は昭和三十五年 (一九六〇)二月二十三日に第125代・今上天皇の第一皇子として出生した。幼称は浩宮である。母の美智子皇后の強い希望により、皇太子らの三兄弟は両親の手もとで育てられた。この際、美智子皇后は皇太子の自立を促すべく、内外を訪問する時には「ナルちゃん憲法」などのメモを侍従らに託し、躾には特に注意するように気を配った。皇太子は幼稚舎から学習院に学び、学習院大学文学部史学科を卒業。大学院に進学し、学長の安田元久(日本中世史の泰斗)の指導の下、中世の交通についての研究を進めた。
昭和五十五年二月二十三日に成年式、平成三年二月二十三日に立太子の礼をあげる。昭和六十一年十月十八日、東宮御所で開催されたスペインのエレナ王女の歓迎レセプションで、同じ月に外交官試験に合格したばかりの小和田雅子と知り合う。お二人の交際は一度途絶えた後、平成四年(一九九二)八月十六日に元外務事務次官・柳谷謙介らの仲介でお二人は再会。御成婚にこぎ着けることとなる。
翌平成五年一月初旬、マスコミが皇太子妃の内定をスクープ。一月十九日に皇室会議で正式に皇太子妃が内定。四月十二日の納采の儀に続き、六月九日にお二人は御成婚し、その後、オープンカーで都内をパレードした。
前後したが、雅子妃はアメリカのハーバード大学経済学部を優秀な成績で卒業。帰国後は東京大学法学部に学士入学をしたという才媛であった。英語の語学力は外務省内でも屈指で、重要な国際会議での下交渉や通訳、現職閣僚と外国の要人との会談の通訳を担当したこともある。
雅子妃の父は外務省条約局長、事務次官を歴任した小和田恒ヒサシ。恒の父の毅夫タケオは教育者で、恒の兄弟には学者や高級官僚がいる。雅子妃の母・優美子はチッソ社長をつとめた江頭豊と妻・寿々子の長女である。
豊の父・江頭安太郎は海軍中将、寿々子の父・山屋他人は海軍大将で、共に明治天皇、大正天皇に拝謁したことがあった。なお、評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)は母の従兄弟である。
平成十三年十二月一日、夫妻に待望の第一子(内親王)が生まれた。
内親王は幼称を敬宮、御名を愛子と命名された。皇太子、雅子妃は平成十四年四月二日などに揃って記者会見を行なった。記者会見では皇太子が進んで育児にとり組んでいることが明らかになった。