今上天皇
『別冊歴史読本』「日本の名家・名門 人物系譜総覧」一部加筆
第125代・今上天皇(一九三三~・在位一九八九~)は第124代・昭和天皇の第一皇子(第五子)として昭和八年(一九三三)十二月二十三日に出生した。称号は継宮ツグノミヤ、御名は明仁である。母は香淳皇后(久遷宮良子(ナガコ)女王)である。幼少期は両親のもとから離されて育てられる。昭和二十七年十一月十日に立太子の礼を、同日に成年式をあげた。終戦後には米国人のヴァイニング夫人を担当教師に迎えて、外国風の教育も受けた。のちに、学習院大学に進学する。昭和六十三年秋頃から昭和天皇の病状が悪化したことに伴い、国事行為を代わってつとめることが多くなった。
昭和六十四年一月七日、昭和天皇の崩御により即位した。元号は翌日(一月八日)に昭和から平成に変わる。平成二年(一九九〇)十一月十二日に即位の礼が、十一月二十二日に大嘗祭が行われた。
今上天皇は皇太子時代から国内各地を訪問し、国民体育大会などの各種の催しに出席していた。数年に一度は、海外の訪問も行っている。また、今上天皇は先年の会見で第50代・桓武天皇(七三七~八〇六/在位七八一~八〇六) の母が朝鮮半島出身の渡来人系の女性であることを公式に認めている。なお、今上天皇は魚類、特にハゼの研究者として内外にその存在を知られている。
今上天皇の皇后は正田美智子(正田英三郎長女)で、(皇族・華族以外の)民間から初めての皇太子妃として話題を呼んだ。
美智子皇后は雙葉フタバ学園小学校、中学校を経て、聖心女子学院中等科、
高等科から聖心女子大学文学部外国語外国文学科に進学。優秀な成績で卒業した。聖心女子大学出身の美貌あふれる才媛の存在が東宮職参与の小泉信三の耳に入り、軽井沢のテニスコートでの出会いが設定されたという。
美智子皇后の実家・正田家は群馬県館林市の旧家で、祖父の貞一郎は日清製粉を興した。父の英三郎(貞一郎三男)は社長を長くつとめた。母の富美子は佐賀県出身の名士・副島綱雄の長女である。英三郎・富美子夫妻の兄弟や一族には実業家、政治家、学者、官僚などの著名人が大変多い。
今上天皇は美智子皇后との間に皇太子(徳仁ナルヒト親王)、文仁(フミヒト)親王、清子(サヤコ)内親王(一九六九~/幼称紀宮)の三人をもうけたが、いずれも両親のもとで育てられた。これは美智子皇后の強い希望によるものであった。この内、文仁親王は独立して秋篠宮家を創設した。