昭和天皇
『別冊歴史読本』「日本の名家・名門 人物系譜総覧」一部加筆
第124代・昭和天皇(一九〇一~八九・在位一九二六~八九)
明治三十四年(一九〇一)四月二十九日に第123代大正天皇の第一皇子とし出生した。称号は迪宮ミチノミヤ、御名は裕仁である。母は貞明皇后(九条節子) で、母方の祖父は公家の九条道孝であった。
大正五年(一九二八)十一月三日に立太子の礼を、同八年五月七日に成年式をそれぞれあげた。
父帝・大正天皇が病弱であったことから、大正十年十一月に、早くも摂政に就任。翌々年(大正十二年)九月一日、関東大震災に遭遇。震災の復興対策に心を砕いていた同年十二月二十七日には、帝国議会開院式に向かう途中の皇太子(昭和天皇)の車が虎ノ門付近で狙撃された(「虎ノ門事件」)。弾丸は外れたが、皇太子は割れたガラスの破片のために軽傷を負う。しかし、何事もなかったかのように開院式に臨んだ。
大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御。皇太子(裕仁親王)が践祚し、元号は大正から昭和に変わった。即位の礼は昭和三年(一九二八)十一月十日、大嘗祭は同年十一月十四日であった。
昭和初年には経済界が世界的な恐慌に見舞われ、続いて軍部の暴走により中国大陸への派兵が続いた。昭和十六年には遂に対米戦争に突入。
開戦努頭のシンガポール 昭南)陥落時には、皇居諸門に詰めかけた国民の前に軍服、騎乗という姿で現れたこともある。
やがて、戦局の悪化を鑑み、ポツダム宣言の受諾を決断。秘かにラジオ放送用の録音を行なった。しかし、これを近衛兵の一部が知り、終戦直前に皇居に乱入。録音盤の強奪を目指すという事件も起こった。
終戦後は軍服を脱ぎ、「人間宣言」を行う一方、全国を行幸し、復興にとり組む国民を励ました。昭和二十一年に公布された計本国憲法では天皇は象徴とされ、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によって行われることとなった。
昭和天皇は昭和六十三年の秋から体調を崩し、下血が続いた。従来と異なり、病状が逐一発表される。
昭和六十四年一月七日に崩御、(八十七歳)。武蔵野陵に埋葬された。
行年八十七歳で、在位六十四年というのは、中世以降歴代天皇の中では共に最長である。
私的な面では生物をこよなく愛したことで知られる。こういったことから、やがて昭和天皇の誕生日(四月二十九日)は「みどりの日」
昭和天皇の皇后は香淳コウジュン皇后(皇族・久遷宮邦彦王第一女子)で、激
動の時代に夫帝を扶けたことで名高い。香淳皇后は御名を良子ナガコといい、
明治三十六年(一九〇三)三月六日に出生した。香淳皇后は昭和天皇の二歳年下ということになる。
母は薩摩藩(鹿児島市)主・島津忠義女の悦子であった。学習院女子部中等科に在学中の大正七年十月、当時の皇太子(昭和天皇)の妃に定められたが、次のようなエピソードが残る。
貞明皇后が学習院女子部中等科を訪問した際、皇后は生徒一人一人の手を拡げて見せるようにいった。いずれも皇族や華族出身の女生徒であるので、ほとんど全員が白い手をしていたが、一人だけアカギレのある手の女生徒がいた。それが久適宮邦彦王第一女子の良子女王であった。
皇后は院長の大迫尚敏オオサコナオトシに良子女王の手のことを尋ねると、他の者が嫌がる掃除を良子女王が率先して行っていて、そのためにアカギレが絶えない、と教えられた。こういった点の他に、なによりも良子女王は穏やかな性格で美貌と気品も将来の皇后に相応しい、と貞明皇后が考え、皇太子妃に決めたという。
良子女王は皇太子妃に内定したことにより、学習院女子部中等科を退学。当時、皇太子の教育を担当していた杉浦重剛らからお妃教育を受けた。
この頃、元老の山解有朋らの策動で「宮中某重大事件」が惹起するが、内定は揺るがなかった。大正十三年一月二十六日、皇太子と良子女王とが御成婚。皇太子が即位すると皇后となった。
戦後、昭和天皇の側にあってつねに笑顔を絶やさないそのお姿は国民から慕われた。昭和天皇と香淳皇后とは周囲の侍従や女官が羨むほど仲睦まじく、昭和天皇は戦後も皇后を「良宮」と呼んでいたわり続けた。
なお、皇后の描いた富士山の絵が記念切手になったこともある。平成十二年六月十六日に崩御(九十七歳)。香淳皇后を追号された。
昭和天皇と香淳皇后の間には皇太子・明仁親王(今上天皇)、正仁親王の二皇子、成子内親王、祐子内親王、和子内親王、厚子内親王、貴子内親王の五皇女があった。
正仁親王は独立して常陸宮家を創始した。
成子内親王(幼称照宮)は皇族の東久遷宮盛厚王に、和子内親王(幼称孝宮)は旧公爵家(公家)の鷹司平通に、厚子内親王(幼称順宮)は旧侯爵家 (旧岡山藩主)の池田隆政に、貴子内親王(幼称清宮)は旧伯爵家(旧佐土原藩主)の島津久永に嫁した。
なお、祐子内親王は生後四カ月余で早世している。