大正天皇 たいしょうてんのう
『別冊歴史読本』「日本の名家・名門 人物系譜総覧」一部加筆
大正天皇(一八七九~一九二六・一九一二~二六) は明治十二年(一二八七九)八月三十一日に第122代・明治天皇の第三皇子とし出生した。称号は明宮ハルノミヤ、御名は嘉仁である。母は柳原愛子ナルコで、母方の祖父は公家の柳原光愛であった。
大日本帝国憲法が発布された年(明治二十二年)の十一月三日、立太子の礼が行われ、皇太子となったが、大正天皇は幼児期から健康がすぐれず、いろいろな病気を患った。近年、宮内庁で大正天皇関係の文書が公開された。肝心な部分が黒く塗り潰されているので詳細は不細だが、大正天皇が皇太子時代から色々な病気を患っていたことを窺わせる記述のあることが確認された。
明治四十五年(一九一二)七月三十日、父帝が崩御。皇太子(嘉仁親王) が践祚し、元号は明治から大正に変わった。大正天皇の即位大礼は大正三年 (一九一四)に昭憲皇太后が崩御したため、当初の予定を変更。即位大礼が大正四年十一月十日に、大嘗祭が同年十一月十四日に行われた。
右で述べた通り、天皇が病弱であったことから、大正十年十一月二十五日に皇太子・裕仁親王(昭和天皇)が摂政に就任。大正天皇は大正十五年十二月二十五日に崩御(四十八歳)し、従来の朝廷の慣例を破り、多摩陵(東京都八王子市)に埋葬された。
大正天皇の皇后は九条節子サダコ(公家・九条道孝女)である。九条家は藤原 (中臣)鎌足に.始まる五摂家の一つで公家の名門中の名門である。明治三十三年五月十日に皇太子妃となり、夫帝の即位により皇后となったが、病弱な夫帝を介護する傍ら、社会事業に理解を示した。大正十五年の夫帝の崩御後は皇太后となったが、即位した昭和天皇を見守り、引き続き社会事業に理解を示した。敗戦後の混乱が漸く治まった昭和二十六年(一九五一)の五月十七日に崩御(六十八歳)。
六月八日に貞明皇后を追号されたが、理想的な皇后として、崩御後も長い間、皇族や旧皇族・旧華族から、「貞明様」と呼ばれて慕われ続けた。
大正天皇は貞明皇后との間に、裕仁親王(皇太子)、雍仁ヤスヒト親王、宣仁ノブヒト親王、崇仁タカヒト親王の四皇子をもうけた。
裕仁親王は先に触れた通り、父帝の晩年に摂政をつとめ、崩御後に即位して昭和天皇となった。
薙仁親王、宣仁親王、崇仁親王の三皇子はそれぞれ独立し、秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家を創始している。