Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

明治天皇 第122代

$
0
0
明治天皇 第122
(一八五二~一九一二/在位一八六七~一九一二)
『別冊歴史読本』「日本の名家・名門 人物系譜総覧」一部加筆
明治天皇 は嘉永五年(一八五二)九月二十二日に第121代・孝明天皇の第一皇子として出生した。称号は祐宮(サチノミヤ)、御名は睦仁である。母は藤原 (中山)慶子(ヨシコ)であった。
 父帝・孝明天皇の妹宮には第14代将軍・徳川家茂に降嫁した和宮親子(チカコ)内親王(静寛院宮)がいる。一方、母方の祖父には父帝の側近として活躍した権大納言・中山忠能がおり、母方の祖母松浦愛子は随筆『甲子夜話』の筆者として名高い肥前平戸藩(長崎県平戸市)主・松浦静山(清)の女である。さらに、慶子の兄弟には天諌組の変の首謀者となった中山忠光がいる。
 孝明天皇には他に、皇子として妙香華院、皇女として順子内親王、富貴官、寿万宮、理宮があったが、孝明天皇の子女で宮家を創設した方はいない。
 明治天皇は出生後、幼児期を母の実家で過ごした後、万延元年(一八六〇) 七月十日に儲君モウケノミヤ(皇太子)に治定された。元治元年(一八六四)七月十九日の「禁門(蛤ハマグリ御門)の変」の際には、皇太子の居室の近くまで銃胞が撃ち込まれ、火炎が禁門に類焼するなど、皇太子にも危険が迫ったことがある。
 慶応二年(一八六六)十二月二十五日、父帝(三十六歳)が崩御。翌年正月九日、十六歳の明治天皇が践祚センソした。元服は慶応四年正月十五日、即位は同年八月二十七日で、明治四年(一八七一)十一月十七日に大嘗ダイジョウ祭が行われた。この間、東京行幸(事実上の遷都)を行い、旧江戸城を皇居とした。
 やがて、明治天曳は現人神として崇められるにいたるが、明治四十五年七月三十日に崩御(六十一才)し、伏見桃山陵(京都市)に埋葬された。
 明治天皇の皇后は一条美子ハルコ(公家・一条忠香女)で、明治元年十二月二十八日に皇后となる。夫帝を扶け、社会事業に理解を示したことで名高い。皇后は大正三年(一九一四)四月十一日に崩御(六十五歳)し、昭憲皇太后と追号された。
 明治天皇は葉室光子、橋本夏子、原愛子ナルコ、千種任子コトコ、園祥子サチコとの間に十五人の皇子、皇女をもうけた。
皇子は皇太子となる嘉仁親王(大正天皇/母は柳原愛子)を除く三人は早世。皇女も十一人の内、七人が早世。残る四人(母はいずれも園祥子)は、昌子内親王が竹田宮恒久王、房子内親王が北白川宮成久王、允子ノブコ内親王が朝香宮鳩彦(ヤスヒコ)王、聡子内親王が東久遷ヒガシクニ宮稔彦ナルヒコ王に嫁した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>