蒲原有明 かんばらありあけ(1876~1952)
『日本文学全集』全29巻
監修 谷崎潤一郎 武者小路実篤 志賀直哉 川端康成 一部加筆
本名隼雄。東京麹町に生まれ、府立尋常中学(今の日比谷高校)を辛業。在学中より『新体詩抄』『於母指』の詔訳詩を妥結した。その後国技英学会で英
語、英文学を学んだ。明治二十八年同人跡にはじめて長詩を発表したが、一時小説もかき尾筒紅葉選の読売新聞の懸賞に当選し、さらに「文芸倶楽部」にも短編を発表して、硯友社系の新人として文壇に出た。一方ではキーツ、シェレーなどの英詩も愛読し、長径詩「夏のうしほ」を「帝国文学」に送り、これが系統されるにおよんで詩壇にも登場。藤村と知るようになって「文学界」をよみ、同誌所載の上田敏訳のロセファイの特に打たれて、これに傾倒した。そしてみすからもソネット形式を用いてさかんに創作するようになった。
明治三十四年「明星」に新作を発表するようになり、翌年「新声社」から、その第一詩集『草わかば』が出版された。
ついで明治三十六単に第二詩集『独弦哀歌』を出したが、この詩集において有明は、ようやく藤村の影響から脱して独自の新風をもつにいたった。この詩集はその大半がソネットであるが、その内向的観念性は、ようやく象徴古式的な性格をふかめるにいたった。
有明はさらに明治三十九年に『暮鳥集』を出し、ついに明治四十一年に、泣董の『白羊宮』と並び称されるわが国象徴詩最高の古典と見られる『有明集』を出した。ここに抄出した二作品は、ともに『有明集』中の作品であり、「茉莉花」は矢巾の傑作とざれている名籍である。
ここでは、対象によって喚起された情緒は、そのまま抒情されるのではない。それは内面ふかく沈み、思想的屈折と陰鬱を与えられたのち、新しく暗示的な情緒として構成されている。この主知的操作は、まったく象徴詩の詩法なのである。有明は、このように泣董とともに新体詩の芸術性を象徴的高踏の世界に極めはしたが、それだけ現実的な時代思想との隔絶を生むこととなり、明治末の口語自由詩の勃興期をむかえて、その特筆を折らざるをえなかった。
現代詩集 薄田泣重
ああ大和にしあらましかば
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備の森の小路を、
あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよ
斑鳩へ。平群のおほ野、高草の
黄金の海とゆらゆる日、
塵居(モリイマ)の窓のうは白み、口ざしの淡に、
いにし代の珍の御経(ミキョウ)の黄金文字、
百済緒琴に、斎ひ先に、彩画(ダミエ)の壁に
見ぞ恍(ホ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花かざす芸の宮、斎殿(イミドノ)深に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折
美酒(ウマキ)の甕(ミカ)のまよはしに、
さこそは酔はめ。
新墾路の切畑に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ静歌の美し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(キビタキ)の
あり樹の枝に、矮人(チヒサゴ)の楽人(アソビト)めきし
戯ればみを。尾羽身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(マセ)に、木の間に、――これやまた、野の法子児(ホフシゴ)の
化(ケ)のものか、夕寺深に声ぶりの、
読経や、――今か、静こころ
そぞろありきの存り人の
魂にしも沁み入らめ。(以下略)