柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ
梅原猛氏著(京都市立芸術大学学長)『別冊歴史読本』
「目で見る日本の英雄百五人」2176・10創刊号 一部加筆
(生没年不詳)
最近、奈良の新庄及び棟本にある人麻呂の像というのを見にいった。人麻呂が脇息によりかかり、左手に紙をもち、右手に筆をもっている像である。歌聖にふさわしい像というべきであろうが、不思議なことには、どの像も首がとれるのである。首が入り首になっていて、くるくる廻るのである。
時代が古いと思われる像は、特に不気味である。その姿勢も、極端に左によって、支えがないと、ひっくりかえりそうな姿である。
しかも、全体が異常に硬直していて、その硬直した姿体の上に、ぐるぐる廻る首がつき、眼が不気味に光っている。後世になると、さすがにそういう像はつくられなくなり、姿勢も自然になり、表情も温和になってゆくが、首がとれるのはもとのままである。
中世、このような像の前で、人麻呂影供というのが行なわれた。その影供というものは、こういう人麻呂像の前に物をそなえ、人麻呂の霊をなぐさめることである。その文章をよむと、和歌の先霊が、現世に執着深く、まよっているが、その先霊よ、どうか安んじて仏国へ往生してくれというのである。もちろん和歌の先霊というのは、人麻呂のことである。
古来から、人麻呂の命日は三月十八日とされるが、この三月十八日というのが、大へんな日である。柳田国男によれば、この三月十八日というのは、あらゆる成仏出来ない亡魂の命日で、小野小町も、和泉式部も、景摘もこの三月十八日が命日だというのである。人麻呂も、三月十八日という命日において、亡魂どもの仲間入りしている。人麻呂が死ぬとまもなく人麻呂は神となるが、なぜ、人麻呂は神となったのか。ただ、歌がうまいだけで神になるはずはないと、
彼は疑っている。
柳田(国男)は、この疑いをといていない。しかし、私は、古代に関する一連の研究によって、この謎をとくことが出来た。だいたい、日本において、個人で、神となるのは、多くは、不幸な死に方をした人間である。仏教の聖人が、聖徳太子、歌の聖人が、柿本人麻呂、詩の聖人が菅原道真ということになっているが、聖徳太子も、菅原道真も、共に、自己あるいは子孫が、不幸な運命にあっていて、菅原道真はもちろん、太子も、怨霊として恐れられたことを、私ほ『隠された十字架』によって明らかにした。
『隠された十字架』を書いている頃は、夢にも思わなかったが、柿本人麻呂もまた、彼等と同じく、不幸な死に方をして、彼の出現する姿は霊の姿、すなわち怨霊の姿であったらしいのである。
もとより、ここでくわしく論じることは出来ないが、持統天皇時代の宮廷第一の詩人であった彼は、文武天皇のときから出来つつあった律令制を看板とした、藤原不比等の独裁体制から、完全にオミットされたらしい。彼の姿が、都から見えなくなるのは、大宝律令が出来、藤原不比等の独裁体制がはじまった頃であり、彼が石見の国で死んだのは、その独裁体制が完成された和銅初年である。つまり、不比等の巡命線と、人麻呂の運命線とが反比例するわけである
が、これは、けっして偶然とは思われない。
大宝元年(七〇一)より、少し後の歌と思われる彼の歌に、有名な
「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば 情もしのに古思ほゆ」
とか、
「もののふの八十氏河の網代木に いさよふ波の行く方知らずも」
という歌があるが、この歌は、追放、流罪の歌として、はじめて、よく理解されるであろう。「行く方知らずも」とは、文字通り追放になり、明日をも知れぬ運命を嘆いたものであり、近江の海の歌は、追放の身の人麻呂が、むかし持統天皇のお供をして、ここに来たときのことを思って歌ったのであろう。
古来から、人麻呂の歌の代表作とされているのは、
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ」
という歌である。例の影供のときも、この歌がまずよまれるのであるが、この歌は万葉集にはない。古今集には、よみ人知らずの歌としてのせられていて、「この歌はある人のいはく、かきのもとの人まろが歌也」
という註がついている。.歌体からいって、人麻呂の歌ではなく、今昔物語にいうように、小野笠の歌である可能性が強い。しかし、かずかずの人麻呂の名歌をさしおいて、なぜこの歌が人麻呂の代表作とされるのか。
この歌には苦から多くの秘伝があったらしいが、この歌は、旅の歌である。つまり、明石の浦から舟が出る歌である。それが笠が隠岐に流人になったときの歌であるとすれば、流人の悲しみを歌ったものであろう。しかし古来からこの歌は、この世から、あの世への別離を歌ったものとされる。つまり、島がくれは、雲がくれ、つまり死のイメージである。舟も、また、死人を送る舟のイメージであろう。この歌は流人の歌であると共に、死の歌であろう。
万葉集には、人麻呂の死を歌った歌が五首とられているが、その中に、彼の死後、妻が歌った歌に次のような歌がある。
「君は石川の貝に交りてありといはずやも」
という歌である。またそれに答えて、死んだ人麻呂に代わって、丹比真人が歌った歌に
「荒海に寄りくる玉を枕に置き われここにありと誰か告げなむ」
という歌がある。
いずれも人麻呂の死骸が、海底に沈んで、行方のわからないという意味の歌である。その他、人麻呂の刑死を語る資料は多い。
あれこれ考えると、人麻呂の刑死説は否定出来ない。真淵以後の人麻呂像は、完全にまちがっていた。われわれは、聖徳太子-人麻呂-道真-将門-義経を同じ精神的伝統の上にとらえねばならない。
◇参考文献(編集部選)
『柿本人麿』 折口信夫・土屋文明 万葉集講座(一)春陽堂 昭8
『柿本人麻呂の作品 久松勝一 万葉集大成(九)件家研究篇上
平凡社 昭28
『柿本人麻呂』 山本健吉 新潮社 昭37
『人麻呂歌集と人麻呂伝』 神田秀夫 塙選書 塙書房 昭40
『柿本人麻呂』 北山茂夫 岩波新書 岩波書店 昭48