露木寛の文学碑
『甲斐の文学碑』<著者奥山正則氏>一部加筆
甲府の荒川・三ツ水門にある
太田町から朝気方面へ流れ行く筋は、しばらく南下して三吉町へと東流するが、里吉、山 城方面に向うものは伊勢町に向って更に南流して行く。三ツ水門の 水は昔から、用水として、おのおのその地域流域の人々と土地とを潤して来たのである。露木寛
この文学碑は昭和五十二年三月二十七日、甲府市相生二丁目荒川土手下の三ツ水門出口に建立され、同日、春さめのそぼ降る中で除幕式が行われた。
いま、未亡人露木千代さんから戴いた「三ツ水門」(露木寛)を見ると、
その「御膳水のはじまり」のところに、この原文が出ており、かつて総合雑誌「文化人」にも連載された、「三ツ水門」の一部であることがわかる。
除幕式で「芳名簿」(霜木先生文学碑建立委員会)や「露木先生追悼録-先生とユネスコ活動」などを戴いたが、「芳名簿」の「年譜」には、
「明治三十一年十月四日、神奈川県に生まれる。小田原中、愛知県立医専(名古屋大医学部)、愛知医大研究科等を卒業、医学博士。昭和五年甲府市柳町(現中央四丁目) に耳鼻咽喉科を開業。県医師会長、山梨ユネスコ協会長、日本ユネスコ国内委員、県教育委員、知歌誌「美知思波」同人等。昭和四十八年四月二日病没、七十四歳。従五位勲四等」
などとあり、志熊孝雄、露木光彦、一瀬稔、古守豊甫、三井俊弘、石川清、斉藤磨喜美、今川徳三氏等が、一文字碑にかかわる、いろいろの記を寄せている。
除幕式に田辺知事さんは
「水とかかわりの深い露木先生らしく、水(而)が祝福してくれる」などと祝いのことばをのべられた。
「美知思波」主宰、伊藤生更師は「露木は歌が出なくなると、かならず旅行にでて、自然詠に磨きをかけた。そつのない款を出すからいい」
などと申されたことを想起する。光彦さんから頂いた「築城伝説」(露木寛、新人物往来社)も興味しんしんである。