わが写真人生 木原和人 「写真馬鹿」といわれたい
現代はまさに、写真時代。ネコも杓子も、皆カメラマン。ひと昔も前から新宿の歩行者大国で石を投げれば、デザイナーかカメラマンに当るといわれているのもうなずける。
私もその写真好き人間の一人である。この20年間、寝てもさめても「写真」 「写真」。私の頭の中にあるのは「写真」の二文字だけ、そんな感じだった。心を苦しませることもあれば、有頂天にさせるときもあった。はたまた頭を痛めたり、最高に喜びを与えられたりで、「写真」という二文字は、つねに私につきまとって離れようとしない。それならそれで、一生写真と組んずほぐれず、取っ組み合おうじゃないかと、そんな気持ちで人生を送るのもまた最高の生き方だろうと、プロ写真家に転向。そしてはや8年、ようやく一冊目の写真集を出版することができた。「ようやく」といったが、私には「はやくも」と感じる。たった8年で写真集を出版できるなんて、思ってもみなかったことだ。
写真に対して、いろいろなほめ言葉がある。どんな言葉でも、ほめられれば、決して悪い気はしない。とくに自己顕示欲の強い写真家なる者は、ほめられればすぐに頬は緩み「彼は正しいし、よくできたやつだ」と感心する。しかしひと言でもけなされれば、たちまち暗雲たちこめ、相手を敵とみなし、「彼はなにもわかっていない」と決めつける。まことに単純なものだ(ここに出てくる写真家とは、私自身のことであり、ほかのだれのことでもないことを記しておく)。
しかし軽蔑の言葉であろうが、尊敬の念でいわれた言葉であろうが、「彼は本当の写真馬鹿だ」といわれると、私は悪い気持ちはしない。私にとつて、写真は人生そのものになっている。したがって「写真馬鹿だ」といわれたならば、私にとつては人生を一黙懸命に生きてきた証明になるのだ。「結果」についてはその人の持って生まれた才能や運が大きくする。それがプロの世界なのだから仕方がないことだ。したがって、私は結果を望むとこよりも、一生懸命生きることを心がける。限りある人生を楽しいものにするためにも私は「写真馬鹿」と呼ばれたいものだ。
サクラソウ ムラサキノハナ ハンゴソウ