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富士崇拝と登山者の伝説

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富士崇拝と登山者の伝説
富士の人穴は、本来は読んで字のごとく、人間の座臥しもしくは入定した遺跡である。富士裾野の上、二千二百十尺の地にある人穴村の人穴も、実は富士講の開祖といわれる行者角行東覚の入定した遺跡に過ぎぬ。
 富士講は、いうまでもなく富士霊峰の神霊を崇拝する人々の団結した講社の総称であって、今の扶桑教や実行教丸山教会等の前身で、講社の隆盛につれて種々の話中を生じ、各講中の先達、行人、信徒は、いずれも修験者の姿に凝して禊祓を暇え、或は又般若心経、陀羅尼、呪文等を誦して、陰暦六七月の交に富士登山し、丹誠を凝して祈祷し、神拝式を行う。かくて富士の神霊を拝し、さて日本六十余州の大小神祇、八百万の神々にも及ぶのであるが、こうして、登山祈祷を乞うに、その神験を得ること著しいと信ぜられて、すこぶる隆盛の時代があった。
 これ原始時代の山岳崇拝に一種の意義を与えた修験道の一派ともいうべきもので、聞祖藤原角行は、俗名を長谷川左近久光といって肥前長崎の産、後奈良天皇の御宇の人で正保三年(1646)六月二日百六歳で富士の人穴霊窟内に遷化したが、それまでに、富士登山すること百二十八回、御中道廻り三十三度、苦行を修ずること二万日と伝えられている。今、人穴の奥には後代の建設にかかる角行の角塔を存するが、富士講の先達は、その後必ずここにその墓を設くる例となったので、人穴には墓が多い。
その富士講の隆盛は、徳川時代のことであるが、富士参詣者の群集したことはそれ以前にもある。
 「甲斐国妙法寺記」によると、足利時代の後土御門天皇明応九年(1500)六月に、「富士道者参無限、関東乱により須走へ皆道者付也」など見えている。それより先文明十二年(1480)には富士の吉田口に鳥居の立てられた記録も見える。当時その登山参詣の群集したことは、「猿楽狂言記」を見ても知られるところから推しても、富士登山者の歴史は随分古いことが知られる。
 日本武尊歴史伝説は、これを別とするも、上宮太子(聖徳太子)が、甲斐国から黒駒に乗って、推古天皇の六年秋九月、富士山頂に登られたという富士登山開闢の伝説を保持するほど富士登山の歴史は古い。
 文武天皇の御宇には、役小角が登山の伝説を持つ。小角は修験道の間祖役行者として知られる偉人で、大和甘葛城山下の人、年三十二歳にして葛城山の岩窟に住し、術を善くした。後妖術者と認められて伊豆に流されたが、その後都に送らる途中、数時にして富士に飛行登山し、人々を驚かしたとい古い伝えもある。「役行者縁起」をはじめ、彼の上に伝えられる説話の大部分は怪奇のものであるが、要するに、彼の富士登山者としての開山的人物てあったということは碓かなようである。図録に樹棄の衣をまとわしめていることなど、古くから富士行者の開山として国民の信仰を存していたことが覗われる。この行者の伝説研究は、小篇の容易に尽さるるところでないから割愛するが、富士には、小御岳の頂から、屏風岩の西を登りて八合目に出で、頂上に達したという伝説が信じられている。
 役小角の他には、近衛天皇の文安年中(1444~49)に奥院に大日本如来を安借したという富士上人末代法師があり花園天皇の文保年中(1317~19)には、僧頼尊の代末的登山が知られている。
 富士山が、かくてようやく仏家の占領に帰し、富士講の隆盛を来すまでの経途をなしたのであった。

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