④靖国神社の成立(芳賀登氏著
<靖国神社の成立(芳賀登氏著 (「歴史地理教育」138 1967・1)>
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E8%8A%B3%E8%B3%80%E7%99%BB%E6%B0%8F&ei=UTF-8
はじめに
靖国神社の歴史は、近代日本の歴史である。そして招魂社以来、古年もたっている。われわれは、したがって近代日本の歴史を考えるために、その百年の歴史、とくにその成立過程を考えてみることは、靖国神社が何のためにつくられたかをしるためにたいせつな作業と考える。
東京招魂社
慶応四年(一八六八)五月十日、それは戊辰戦争の一大画期たる江戸城開城が行なわれてしばらくたったときに大政官布告が出された。それには、
芙丑(嘉永)以来唱義精忠天下魁シテ国事二斃候諸子及草莾有志之輩冤枉羅禍者
および、
当春伏見戦争以来引続キ東征各地ノ討伐二於テ忠奮戦死侯者
のために、京都東山につくられたのが、招魂社のはじめである。
東京招魂社は明治二年(一入六九)六月、東京九段坂上につくられたが、これは京都東山の招魂社の発展の上につくられたものである。
しかし招魂祭は、慶応四年六月二日に江戸城西の丸の大広間で実施されている。
これは、東征大総督府が、関東・東北の戦いで戦死したものの招魂祭を行なったものである。祭主には、遠州報国隊の大久保初太郎(のち春野陸軍大将)や、同桑原真清が介添に当っている。京都では、それにすこしおくれて七月十・十一両日にわたって河原操練場で招魂祭が行なわれている。
これによると、招魂社が戊辰戦争の戦死者慰霊のためにつくられたものであり、そしてその主権が、大総督府であったことがあきらかである。
その反面、先述の慶応四年五月十日の大政官布告には、癸丑以来の「勤王」志士の招魂がうたわれている。これは長州その他ですでにおこなわれていたもので、なかでも文久二年(一八六二)十二月二十四日の古川窮行(江戸)・世良孫槌(長州)・世良利貞(長州)・西川善六(近江)・長尾郁三郎(京都)・福羽美静(津和野)が中心になって、東山の霊明社に会して慰霊祭をおこなって以来、さかんになっている。こうした伝統が、突丑以来の語になったと考えられ
る。
しかるに東京招魂社の場合には、明治二年(一八六九)六月二十九日の大政官布告のごとく、「戊辰以来戦死ノ士ヲ祭ル」に集約されていた。だがこの祭典において、各藩主、島津・毛利・山内ら九十名が参加し、神僕の分与をうけると共に、遺族御優遇を指示された。
そして、戊辰戦争(伏見・鳥羽より函館まで)の戦死者三五八八柱を祭り、ついで七月より、一月三日を伏見戦記念日、五月十五日上野戦争記念日、五月十八日函館兵降伏記念日、九月二十二日会津降伏記念日とし、最初の例祭を九月二十二日ときめた。
これらの経過をみても、東京招魂社があきらかに、戦死者を慰霊すると同時に、戦勝の記念の性格をもっていることをしめしている。その中で会津戦争勝利日の比重が大きい。
2 靖国神社
東京招魂社の設立以後、国事に身をつくした人を合祀するという慣例が成立した。明治七年(一八七四)佐賀の乱・台湾征伐、同八年(一八七五)江華島事件、同九年(一八七六)熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、同十年(一八七七)の西南戦争があいついでおきた。その度毎に、東京招魂社において臨時大祭が行なわれた。その中心は、兵部卿もしくは陸軍刺であった。明治六年には勝海軍卿となったためか函館戦争記念日がなくなった。
当時は、神職はおかれず、会員によって運営されていた。西南戦争殉国者合祀は、明治十一年(一八七八)七月に行なわれ、祭神柱数は、一万六〇六柱におよび、ここにおいて招魂社ほ、国家に殉じた人の忠霊合祀場となった。以後西南戦争の終結記念日九月二十四日が大祭日となった。
すでに明治八年に、招魂社規則がきめられ官祭と私祭に分けられ、官祭のものには祭祀料と修繕料が出されるに至っている。
したがって、公然とした型で、国庫補助が決められている。それが明治十二年(一八七九)六月四日の太政官達によると、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社に格上げられた。この靖国神社の成立は、陸軍省第一局長より西郷陸軍卿に提出される型で、成立している。
したがって軍部の主導権のもとで靖国神社はつくられたのである。
靖国神社なる名称は、掌典の丸岡莞爾の祭文にあるように「大皇国ヲバ安国卜知食(シロシメ)ス」神をまつるところとの考えによって名付けられたものである。
その由来は「日本者(ハ)浦安国」「四方国を安国と平けく」「大倭日高見国を安国と定奉り」「瑞穂の国を安国と平けく」とするように、「古事記」「日本書紀」「延書式祝詞」にあらわされるがごとき古典精神の継承にあった。その上に、靖国神社が別格官幣社となったことは、その規定の
「国乱ヲ平定シ国家中興ノ大業ヲ輔巽シ又ハ国難二殉セシモノ若クハ国家二特別麒著ナル功労アルモノニシテ万民仰慕シ兵ノ功績現今己二祀ラレシモノニ比シ諌ラサルモノ但シ一神一社二限ル」
とあることより、楠木正成その他の祭神並の好遇であることをしめしたものである。
ここにおいて国事につくした人は無名の士も、別格官幣社の祭神になれると認識もさせたのである。しかしこの年より祭日は五月六日と十一月六日だけとなり、春秋二回、上野と会津にたちかえっている。
しかも靖国神社は、その会計経理面は、明治二十三年十一月まで少くとも陸軍省の管轄下にあった。そして神職はおかれず、奉納金・賽銭は陸軍省収入となり、祭祀料は陸軍省よりだされている。神職として奉仕するものは会員から選ばれていた。他の神社と異なって内務省のカはよわく、特殊なものとされた。
明治二〇年代になって、陸軍省だけでなく海軍省も加わった。神職は明治三十五年以降は内閣の監督下に入った。それにしてもつねに靖国神社は、陸軍の力に終始監督されてきた。そのことは、靖国神社の祭典には、つねに陸海軍卿が真先に礼拝すること、そして、慶を開いた時にも軍楽吹奏が行なわれ、きよめの時にも、軍楽を吹奏すること、こうした式典のあり方そのものが、軍中心のものである。それは靖国神社年中行事の式祭が大正三年に陸軍省令で祭式にきめられたことにも示されている。また春秋二回の大祭は日露後は三月十日の陸軍記念日と十一月二十三日の海軍凱旋日に固定されることとなった。
また靖国神社は、他の神社と異なって数少ない勅祭社に定められている。天皇、皇后の行幸啓でなければ、勅使の差遣がみられる。
祭神は、上奏裁可を得て、合祀されたものである。このようにみてくると、靖国神社は、特別な扱いをうけていたといってよい。
それでは、なぜ靖国神社は、こうした特別あつかいをうけたのだろうか。この点の解明こそ、明治首年が招魂社官年であることの意味を考えるために、たいせつなことの一つである。
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はじめに
靖国神社の歴史は、近代日本の歴史である。そして招魂社以来、古年もたっている。われわれは、したがって近代日本の歴史を考えるために、その百年の歴史、とくにその成立過程を考えてみることは、靖国神社が何のためにつくられたかをしるためにたいせつな作業と考える。
東京招魂社
慶応四年(一八六八)五月十日、それは戊辰戦争の一大画期たる江戸城開城が行なわれてしばらくたったときに大政官布告が出された。それには、
芙丑(嘉永)以来唱義精忠天下魁シテ国事二斃候諸子及草莾有志之輩冤枉羅禍者
および、
当春伏見戦争以来引続キ東征各地ノ討伐二於テ忠奮戦死侯者
のために、京都東山につくられたのが、招魂社のはじめである。
東京招魂社は明治二年(一入六九)六月、東京九段坂上につくられたが、これは京都東山の招魂社の発展の上につくられたものである。
しかし招魂祭は、慶応四年六月二日に江戸城西の丸の大広間で実施されている。
これは、東征大総督府が、関東・東北の戦いで戦死したものの招魂祭を行なったものである。祭主には、遠州報国隊の大久保初太郎(のち春野陸軍大将)や、同桑原真清が介添に当っている。京都では、それにすこしおくれて七月十・十一両日にわたって河原操練場で招魂祭が行なわれている。
これによると、招魂社が戊辰戦争の戦死者慰霊のためにつくられたものであり、そしてその主権が、大総督府であったことがあきらかである。
その反面、先述の慶応四年五月十日の大政官布告には、癸丑以来の「勤王」志士の招魂がうたわれている。これは長州その他ですでにおこなわれていたもので、なかでも文久二年(一八六二)十二月二十四日の古川窮行(江戸)・世良孫槌(長州)・世良利貞(長州)・西川善六(近江)・長尾郁三郎(京都)・福羽美静(津和野)が中心になって、東山の霊明社に会して慰霊祭をおこなって以来、さかんになっている。こうした伝統が、突丑以来の語になったと考えられ
る。
しかるに東京招魂社の場合には、明治二年(一八六九)六月二十九日の大政官布告のごとく、「戊辰以来戦死ノ士ヲ祭ル」に集約されていた。だがこの祭典において、各藩主、島津・毛利・山内ら九十名が参加し、神僕の分与をうけると共に、遺族御優遇を指示された。
そして、戊辰戦争(伏見・鳥羽より函館まで)の戦死者三五八八柱を祭り、ついで七月より、一月三日を伏見戦記念日、五月十五日上野戦争記念日、五月十八日函館兵降伏記念日、九月二十二日会津降伏記念日とし、最初の例祭を九月二十二日ときめた。
これらの経過をみても、東京招魂社があきらかに、戦死者を慰霊すると同時に、戦勝の記念の性格をもっていることをしめしている。その中で会津戦争勝利日の比重が大きい。
2 靖国神社
東京招魂社の設立以後、国事に身をつくした人を合祀するという慣例が成立した。明治七年(一八七四)佐賀の乱・台湾征伐、同八年(一八七五)江華島事件、同九年(一八七六)熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、同十年(一八七七)の西南戦争があいついでおきた。その度毎に、東京招魂社において臨時大祭が行なわれた。その中心は、兵部卿もしくは陸軍刺であった。明治六年には勝海軍卿となったためか函館戦争記念日がなくなった。
当時は、神職はおかれず、会員によって運営されていた。西南戦争殉国者合祀は、明治十一年(一八七八)七月に行なわれ、祭神柱数は、一万六〇六柱におよび、ここにおいて招魂社ほ、国家に殉じた人の忠霊合祀場となった。以後西南戦争の終結記念日九月二十四日が大祭日となった。
すでに明治八年に、招魂社規則がきめられ官祭と私祭に分けられ、官祭のものには祭祀料と修繕料が出されるに至っている。
したがって、公然とした型で、国庫補助が決められている。それが明治十二年(一八七九)六月四日の太政官達によると、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社に格上げられた。この靖国神社の成立は、陸軍省第一局長より西郷陸軍卿に提出される型で、成立している。
したがって軍部の主導権のもとで靖国神社はつくられたのである。
靖国神社なる名称は、掌典の丸岡莞爾の祭文にあるように「大皇国ヲバ安国卜知食(シロシメ)ス」神をまつるところとの考えによって名付けられたものである。
その由来は「日本者(ハ)浦安国」「四方国を安国と平けく」「大倭日高見国を安国と定奉り」「瑞穂の国を安国と平けく」とするように、「古事記」「日本書紀」「延書式祝詞」にあらわされるがごとき古典精神の継承にあった。その上に、靖国神社が別格官幣社となったことは、その規定の
「国乱ヲ平定シ国家中興ノ大業ヲ輔巽シ又ハ国難二殉セシモノ若クハ国家二特別麒著ナル功労アルモノニシテ万民仰慕シ兵ノ功績現今己二祀ラレシモノニ比シ諌ラサルモノ但シ一神一社二限ル」
とあることより、楠木正成その他の祭神並の好遇であることをしめしたものである。
ここにおいて国事につくした人は無名の士も、別格官幣社の祭神になれると認識もさせたのである。しかしこの年より祭日は五月六日と十一月六日だけとなり、春秋二回、上野と会津にたちかえっている。
しかも靖国神社は、その会計経理面は、明治二十三年十一月まで少くとも陸軍省の管轄下にあった。そして神職はおかれず、奉納金・賽銭は陸軍省収入となり、祭祀料は陸軍省よりだされている。神職として奉仕するものは会員から選ばれていた。他の神社と異なって内務省のカはよわく、特殊なものとされた。
明治二〇年代になって、陸軍省だけでなく海軍省も加わった。神職は明治三十五年以降は内閣の監督下に入った。それにしてもつねに靖国神社は、陸軍の力に終始監督されてきた。そのことは、靖国神社の祭典には、つねに陸海軍卿が真先に礼拝すること、そして、慶を開いた時にも軍楽吹奏が行なわれ、きよめの時にも、軍楽を吹奏すること、こうした式典のあり方そのものが、軍中心のものである。それは靖国神社年中行事の式祭が大正三年に陸軍省令で祭式にきめられたことにも示されている。また春秋二回の大祭は日露後は三月十日の陸軍記念日と十一月二十三日の海軍凱旋日に固定されることとなった。
また靖国神社は、他の神社と異なって数少ない勅祭社に定められている。天皇、皇后の行幸啓でなければ、勅使の差遣がみられる。
祭神は、上奏裁可を得て、合祀されたものである。このようにみてくると、靖国神社は、特別な扱いをうけていたといってよい。
それでは、なぜ靖国神社は、こうした特別あつかいをうけたのだろうか。この点の解明こそ、明治首年が招魂社官年であることの意味を考えるために、たいせつなことの一つである。