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銚子市の名産「イワシのうの花漬」の元祖 奥田長作

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銚子市の名産「イワシのうの花漬」の元祖 奥田長作
銚子港産業界の恩人奥田長作
 『伊那』198610月号 伊那史学会 村澤武夫氏著
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ことしの二月号伊那に、飯田市北方にある「下木戸と七十一人田の神」という石碑のことや、これにまつわる伝説など書いたところ、二月終りころとなり、大瀬木で果樹園をやっている奥田小治郎(石碑に刻まれている奥田式太郎の後裔)と、その別家の奥他宗平氏とが来訪されて、祖先がケチ田を買ってから家に病人が出たり不幸つづきとなったので、他に売り払った、ということを話してくれた。
 そんな話をしているうちに小治郎氏は、次のような珍しい話をしてくれた。というのは、
自分たちの祖先に奥田長作という人があり、此の人は幕末のころ、下総国(千葉県)の銚子港に移住して、現在同地の名産となっている「名産イワシのうの花漬」というものを考案した。これが同地の重要産業の一つになっているものの創始で、その長男の信伊奈亮正は我が国に於ける写真の大家だったことなど、銚子市で発行されている日刊常総新開などの資料多数を持参して見せてくれた。これらのことは初めて開くことなので、奥田氏持参の資料と、同氏の研究をお取り次ぎする。
 
○日刊常総新聞(昭和六〇、一、一八)に
〝イワシうの花(卯の花)漬の元祖、奥田長作の墓探し、長野県から奥田宗平氏釆銚″
 「イワシのうの花漬の創始者は私の祖先、奥田長作。その墓が銚子にあると聞いたのですが」と今月五日、長野県からはるばる来銚した人がいた。
 この人は長野県飯田市大瀬木19861、奥田宗平さん(果樹園経営)で、市役所の商工観光課を訪れたもの。
奥田さんの話によると「奥田長作」は、信州下伊那郡(現在の地番は飯田市大瀬木1151)で生まれた。彼は銚子で大量にとれるイワシの保存を考え、うの花漬を創始、また織機による機織りも伝授、さらに医学や鉄砲にも精通していた。銚子に墓があることを知ったのは、十年前で、奥田さんが従兄弟に聞いた話によるという。
従兄弟の話とは、埼玉県川口市に住んでいた塚田くに枝さん(故人)と、同市に遊びに来た銚子の友だち(誰かは不明)との話の中に、偶然にも奥田長作の話が出て、「その人の墓なら銚子にありますよ」といっていたことからで、奥田さんはこれを手がかりに、今回来銚を思いたったのだそうだ。
 訪問をうけた商工観光課では、奥田さんの供養をしてあげたかったので、早速関係各課に照会したり、市内の各寺院にも問い合わせたが、残念ながら判らず終った。奥田さんは戸籍を遡って調べ、資料をもって再度来銚したいと話していた。なお奥田長作が亡くなったのは江戸安政年間から、明治前でなかったかといっていた。
○同年三月十七日の同新聞には、
 〝「奥田長作」の墓探し、完遂″
〝銚子市役所、商工観光課、花塚係長の執念実る
  長野県飯田市の奥田さん大喜び″
 本紙二月十六日並びに二月二十三日付けで掲載した「奥田長作」(医学・薬学・数学・科学・鉄砲に長じ、鰯(イワシ)卯の花漬けを伝授したといわれる)の没年、寺、交友関係などが遂に判明した。
 「イワシ卯の花溝を伝授したのは私の先州、奥田良作。その墓が銚子にあると開いたのですが」と、長野県飯田市からはるばる奥田宗平さん(同市大瀬木19861、(果樹園経営)が来銚し、市役所商工観光課を訪れた外は、ことしの二月五日、同課では早速関係各課に照会したり、市内の各寺院に問い合わせたが、この時は皆目判らずに終った。しかし同課の花塚敏明係長は「せっかく遠方から来てくれたのだからこのままでは気の毒」と、土曜の午後、日曜のたびにサービス精神を発揮して郷土史研究家も顔負けの執念で「奥田長作」を追って銚子、波崎を取材し続けた。そして去る十日、とうとう「奥田長作」を最後まで世話した人の孫と出会った。
 以下花塚係長が奥田長作の足蹟を尋ねて、遺族や市内の寺院など、探し歩いた苦心談も載っているがこれは省略する。
 とにかく銚子市の名産「イワシのうの花漬」の元祖といわれている奥田長作は、大正十年九月二十五日、八十五歳で亡くなり、銚子栄町四丁目一五〇五番地の古刹、威徳寺に葬られ、戒名を無量院仁道剛直居士といい、郷土大瀬木の奥田小治郎、宗平両氏ら一族九人は、昭和六十年八月十三日同寺を訪れ、供養と墓参をしたことものっている。
 
長男、信伊奈亮正 写真家で大活躍
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 (奥田長作の長男で亮正という)北道大学美術学部講師、岩佐博敏の著わした「北海道写真師列伝」によると、本名は奥田亮正、明治元年十一月長野県下伊那郡伊賀良村に生まれ、十二歳のとき長崎に行って、写真の先達である上野彦馬について写真術を修得、上京後明治二十四年独立して、東京で写真館を開業、翌年札幌に信伊奈写真館を開いた。この時二十五歳。姓は出身地の信州伊那をもじってつけたというが、その写真技術は天才的で、とくに修正技術にすぐれ、たいへん美しい写真をつくり、客によろこばれ店も繁昌したという。また自ら信伊那式閃光器を発明し、明治天皇御大葬のとき大活躍。大正九年には北海道写真師連合会が結成されたとき推されて会長となったが、大正十二年九月一日の東京大震災のとき、店舗も焼失、子供にも恵まれず、不遇のうちに昭和八年五月亡くなったという。
 これまで記したように、飯田市大瀬木出身の奥田長作父子が、他郷にあってそれぞれの地方のため、よい仕事をした。
こういう例はほかにもあるかと思うが、筆者のところへも自分の祖先は飯田だというが、調べてくれといって頼みに来る人が年内に何人かある。

柘植浩略
 これは昨年四月のことだが、東京都千代田区にお住いの「柿植かづ」という老人の方が、自分の祖父素平治は飯田寧王堀氏に仕、え、その長男浩は江戸で安井仲平に漢学を学び、明治初年福井県坂井郡三国町の南小学校の教授となり、墓碑にも飯田藩主堀親広に仕えと刻まれているとのことだった。
 そこで飯田藩関係の書類や分限帳(職員録のようもの)のほか、電話帳などから柘植姓を探し出し、そんな方面にも照会してみたが、手掛りはなかった。(柘植姓は箕輪にあったが今はない)。そこで福井県三国町南小学校に照会したところ、次のような同校百年史に記されている柘植浩伝をコピーにして送って下さった。

 柘植浩略伝 
 名を浩といい竹鴇は号である。信州飯田の人で、父は堀親広侯の旧臣柘植嘉平治といった。浩は弘化四年より嘉永元年まで、江戸において安井仲平に従い漢学を修めた。安政二年三州新城校舎の教授となり、明治三年坂井港郷学所開設に際し迎えられて教授となり、明治五年学制改革にともない、学区取締を命ぜられ(以下中略)常に生徒を奨励して風紀を一変させた。明治六年八月八日事故あって、自刃した年四十一歳。三国三味には「伯粛小学校教授 柘植浩之墓」。裏面に略伝が彫ってある、というもので、これも心当りの方があったら、御教えねがいたい。何といっても飯田は昭和二十二年の大火の後に、墓地整埋が行われ、それに近ごろは同和教育、人権尊重、個人のプライバシ―と言ったことから、古い壬申戸籍なごも、見られなくなり、古い家族関係など調べるに都合がわるいことになった。(終り)

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