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熊本県のなりたち もっこす

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熊本県のなりたち
『新人国記』朝日新聞社 昭和39年刊 一部加筆
 
九州の中央部を占め、早くから熊襲のぉとこ、おんなが住んだ。クマモトの名
の由来といわれる。やよい式遺跡や「高塚古墳」のおびただしい分布が、古代の繁栄を語っている。
 上代
記紀によれば「火(肥)の国」とよばれ、のち「肥前」「肥後」にわかれ、肥後の国府がおかれた。
 中世
荘園に豪族割拠して勢力を争ったが、鎌倉幕府で統一。
 近世
北部を加藤清正、南部を小西行長、球磨山地を苦からの地頭相良氏が治めたが、寛永九年細川忠利が五十四万石の大守。
 明治
明治四年、廃藩置県で熊本藩を「白川県」、人吉藩に天領(幕取直轄)天草と、平家部落五家荘を加えて「八代県」。同六年一本になって「白川県」、さらに九年、いまの「熊本県」に改められた。
 
もっこす
 「お国は」     
「くまもと」
「おッ――〝肥後もっこす〃か」
熊本県人は、「もっこす」でなければならないかのような、ごあいさつで参る。
 「もっこす」がよか腕もって難儀する
 「もっこす」が送り膳まで突返す
 「もっこす」が線引いたごっ水を打ち
 
熊本在住の中島-葉宗匠の「肥後狂句」にでてくる、もっこすである。
ある婚礼の座敷。頭をコブ(瘤)だらけにした男が、障子に指でアナをあけてのぞきこみ、
「その花嫁どは、おるがつぼー」(おれの女だ)
さっきから同じことをいって、表をうろつくので、世話役どもが、ことめんどうと、ふくろだたきにして迫っぱらった男。いつの間にか、こんど三々九度の部屋のそとまであがりこんでいる。
「ぬしゃ、まあだやめんとか」と、みんなでツマミ出した。
女をとられたくやしさに、たたかれてもいっこくに納得を求めねばおさまらぬ胸。--もっこす〃には、こういうのもある。                           
追い腹を許さぬ主君へのツラアテに、切らずにすむ腹を切って、父子二代滅びてゆく、森鴎外の「阿部一族」も、細川藩士のもっこす。
 わずか百数十の人数で、負けるときまっているのに、熊本鎮台へ切りこんだ神風達は「集団もっこす」
 ある武士、江戸で一両だして刀をもとめる。友だちにみせたら「いい刀だ、三両はする品」といわれ、刀屋へとって返し、「オレも肥後藩士、商人に損ばさせたじゃあ、名折れになる」と、辞退する番頭にムリに二両をおいて帰った。〝肥後の投げ財布〃である。
 高山彦九郎が、薩摩へ下るというので、国境まで見送りをいいつけられた若い男、途中で彦九郎は気をかえて人吉へ行ってしまう。男もそこから引返すかと思ったら、一人で薩摩境まで行った。融通がまるできかないが、本人は筋をとおしたつもりである。
 東京の新宿あたりで学生がけんかをしている。勝っていつまでも威張っていて、しまいにヤジウマに袋だたきにあうのは、たいてい熊本の学生であった。〝槍は柳川、剣術ア久留米、意地は能本、気は薩摩″
 その熊本人気質の「意地」が、もっこすのバックボーン。
 土地代一円のくい違いから、十八年間もながい裁判を続け、何千倍何万倍の訴訟費を使ったという記事が、昭和のはじめ熊本の新聞にのった。もっこす二人がツノ突きあわせたのである。
 土佐に「いごっそう」、薩摩に「ぼっけもん」、似たようなものであるが、「肥後もっこす」はちょっとちがうようである。反骨、がんこ、ヘソ曲り、そうしたものを、さらにテコでも動かぬいっこくさで貫き、肥後独特の〝ヤボッたさ″で包んでいる味。そういうのが、もっこすの姿かたちか。
だから、もっこすの動くところ、あまりの一途さがユーモァにもなれば、明るいくせに、一抹の哀感もともなう。
政治評論家細川隆元は、肥後人にも協調型と策士型がある。〝もっこす″はさし当りそういう型からハミだした〝一匹狼″だという。ときにさびしさの影をひくゆえんでもあろうか。
 風土と歴史と人間は相即不離である。阿蘇の火の山と高原と平野と川。暑さ寒さの極端にはげしい気候!そういう土と凪が、もっこすを生み、熊本的な人間を、ながい聞かかって育てた。
 ヒナ型として.〝蜂の巣城主″室原知幸に登場ねがおう。

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