晩菘(ばんすう)先生碑
この碑は、晩菘先生の仁恕勤便の徳を永久に伝へ汎く世道人心の鑑と成さんとする為、松平康國撰文。公爵徳川家達篆額。日高秩父書により大正三年四月慈雲寺住職中村紹憲師及び親族門下生地域の有志等相企画し建立されたものである。
封建時代四民は平等ではなく、官途に登れる者は、名門の子弟に限られていた。然し、晩菘先生は、農家に生を受けたが、身を起し発奮して武士となり、徳川幕府に仕えて大吏となった。
’先生諱は穆、幼少の頃は藤助といい、後に専之丞と称した。旧姓は益田、甲斐大藤村の人である。若くして性磊落大志を抱いていた。十六歳のとき、幕吏の巡行にあい、その威光の盛なるをみて、大吏の不当さを、発奮して江戸に上る。初め代官手代となり、幕臣真下家を継ぐ。抜擢されて支配勘定役となり、甲州の金山奉行を命ぜられた。従者数十人厳然と行列を正して、故郷に錦を飾ることができた。郷党の者皆驚き、これが藤助かと平伏して仰ぎ見る者無かったという。
累進して蕃書調所組頭、小十人、陸軍奉行並支配(席高五千石)にまで登ることができた。慶応三年幕府崩壊寸前に職を辞し、老後は横浜に私塾を開き、専ら育英を事とし、傍ら書を楽しむ。
明治八年七十七歳を 以て没す。先生その職に在るとき、恩威並び行いその故に一民 心伏し、浮浪博徒に至るまで感激したという。又、常に多くの食客を養い、人材を世に出していた。樋口一葉の父則義もその一人であった。特に私塾の門下生の教育には力を尽くし、後に、天下の名士となった者に、沼間守一、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎、荒川義太郎、村野常右衛門、蒲生重章、石坂昌孝などがある。
先生の書は初め空海を学び後に懐素、趙子昴に学ぶ。草体に最も長じていた。先生の幕吏としての業績は審らかではないが、門下生の多材さを見れば、その学業の偉大であったこと判るであろう。碑の地を先祖の墓のある慈雲寺を選び、資を募り之を建てた。人々は、住持紹憲師及び親戚、知人、門下生である。来って余に文を乞う者は、先生の孫、阪本三郎君(元山梨県知事)である。
平成拾壱年四月 晩菘会