Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

穴山梅雪の死

$
0
0
穴山梅雪の死
『翁草』
徳川家康と別行動をして死す。

徳川家康
天正十年甲州武田滅亡後、家康家公は穴山梅雪と御同道にて三州安土へ御登りあり、信長これを饗せられ、それより京洛ならびに泉州堺あたりを遊覧のため、信長公より、長谷川竹を案内に添られ上方に登らせ給い、梅雪と倶に京都より堺へ移給い、彼地に御滞流していた処に、六月二日京都に於いて信長公父子横死の由、注進到来する。依って茲供養の面々御評定ありけるに、各被申しけるは、今度は上方遊覧の御事なれば、御手勢とても一向無之、御国にはるか所を隔てれば、所詮合戦の事は、決して不可然、早く御帰国ありて、重ねて義兵を被催んに不如と評儀一決して、即御人数を纏、井伊万千代生年二十二歳、御先手を承わり、普光寺を経て城州に出て、江州信楽を過ぎて、多羅尾の至り給う所にその所の山口勘助、多羅尾四郎兵衛らが羅出で、かいがいしくご案内を致し、間道を越えさせ給う處に一揆がおきて道路を塞ぐ、井伊直政・本田忠勝、武を逞しく是を打ち破り。上下恙なく伊賀国拓殖を経て、勢州白子へ出給い、それより御乗船、三州大濱に御着、四日に岡崎城へ入せられる。

穴山梅雪
穴山梅雪も、家康公と倶に帰国していれば恙なかるべきを、如何思はん、家康公と引違って、宇治田原の方へ赴けるに、此辺は特に大勢の一揆があり、梅雪を始め、従者一人も残らず、一揆の為に討たれる。
而して今度路地に於いて家康公に忠孝を尽くせし郷土の百姓、後に悉く召し出して恩賞を賜う。多羅尾らは殊更に取り立てが有り、近くの耕地を悉く多羅尾の支配地とした云々。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>