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山梨県の偉人晩菘(ばんすう)真下専之丞について

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山梨県の偉人晩菘(ばんすう)真下専之丞について
小池芳正氏 岩下よし子氏 駒田兼雄氏 植原ますえ氏 共著 一部加筆
年輪「山梨ことぶき勧学院大学院」平成6年度卒業(5期生)
文学・芸術コース卒業論文集 山梨県教育委員会
一部加筆
 
 遡ること195年前、寛政年間より幕末の動乱期を経て、明治維新までの、波乱万丈の生涯に志を抱き、-介の農民より奮起して武士となり、遂に陸軍奉行並びに支配、場所高五千石の家老上席となり、77才にして泉下の人となった晩菰傑士の一生を、時代の検証と共に、年代に従い記述してみた。晩菘の顕彰碑は、塩山市慈雲寺境内に樋口一葉の碑と共に、ひっそりと建っている。訪れた日は人影は全くなく、ひぐらしだけが鳴いていた。おそい夏の暑い日であった。
 晩菘の号をもつ真下専之丞は、寛政11年(1799年)現在の塩山市中荻原(旧大藤村)に父仙右ヱ門、母(母名不詳)の一農民の件として生れた。戸数僅か200戸足らずの貧農の集落であり、村人は閉鎖的で、当然の如く野良仕事のみに精を出し、世間の動きには全く無関心であった。が、晩菘だけは胸中深く青雲の志にもえていた。
旧姓は鶴田、幼名藤助として、幼い頃より孝心が篤く、13才の時に母の酒乱を憂い、厳寒の最中、一里程離れた雲峯寺の琴平神社に刻参りを続け、母を改心させた。学問は6才より始め、正念寺の諦厳法師に、更に法正寺の是証師に学んだ。年と共に学識が深まるにつれ、心を押えかね出府した。
しかし家運を理由に父母に呼び戻され、引き止め策として24才にして同村金子ふじを娶る。
しかし新任代官の倹地の権威を見るにつけても出府の志止み難く、其の機の熟するのを待った。たまたま村役人達から極度の侮蔑を受けたのを機に憤然として、家をすて、親妻子を残して出府し、旗本小原家の下男となった。時に文政8年(1825)、27才である。その2年後、父の病没により、小原家に許され、一室に妻と子を呼びよせた。子連れ百姓夫婦の武家奉公がいかに苦労か偲ばれるが、その勤勉さに代官手代の補充にと推す人があり、念願の機会到来に小原家を辞し、その任についた。これにより後年の出世の第一歩が拓かれたのである。 

平馬新作と改名
天保元年(1830)、32才の時であった。名も武士らしく平馬新作と改め、甲州石和代官所谷村出張所へ赴いたのである。任務は公事方と云い、現在の裁判官の下働きで、主として管内の取り仕切りの仕事であった。下位職のため、絶えず江戸への伝達伺いとその往復が多かった。その帰路は原町田村脇本陣武蔵屋を常宿としていた。
が、いつしか武蔵屋の娘クニとなさぬ仲となり、情を通じて男の子を産ませた。その子が渋谷徳次郎であり、徳次郎の子渋谷三郎が樋口一葉の元許婚者であり、後に大正時代山梨県知事となったその人である。
代官勤務の頃は、尊王撰夷の志士達の横行で、騒然とした社会情勢の時代であった。時あたかも甲府代官所への場所替えを機に、晩菘は激動の情勢に乗じ、志を遂ぐべく決心し、折角の代官職を辞し、再度江戸へ立っている。その直前に短期間ではあるが故郷萩原村へ帰省し、放置のままの家、屋敷、借財などの身辺整理をしている。その貴重な書類が、本家の益田謙次郎方に今も保存されている。

真下(ましも)専之丞
 しかし激動の世とはいえ、野心のみが燃え上っても封建社会の階級制度の時代であり格式、家柄がない者には出世の道は閉され、武家の身分を手に入れない限り、如何ともしがたいのであった。晩萩は熟慮の結果、天保7年(1836年)たまたまの機会を相当の金品により、旗本真下家の家督を譲り受けた。これにより姓は真下、名も専之丞と改名し、完全な武家として自立した。38才である。
 真下家は、近江源氏、佐々木高綱の支流に当り、真下藤四郎源重照が祖である。重照は関東官領、上杉憲政の家臣で、のち真下家は徳川幕府に仕え、江戸城本丸の賄方に任ぜられ、真下伝四郎重時の代に、御本丸大奥膳所小間遺組頭にて、表御台人となっている。重時の子伝左ヱ門重成もその職を継ぐ。これが晩菘の養父である。
 晩菘は真下家を相続すると、ただちに江戸城西の丸表御台人となった。また天保12年(18417月には支配勘定出役(金山奉行)として甲州保金山奉行についている。
保金山は現在の早川町にあった金鉱で、当時は保村として、明治時代に郡川村となり、昭和31年(1898)より早川町となる。この金山関係書類は、昭和20年の保集落の大火で惜しくも焼失して現存しないと聞く。
 この奉行中、晩菘は上役の不正に連座して冤罪のため蟄居の身となるが、復帰後の嘉永5年(1852)、抜擢により御作事奉行方亭役出役となり、品川砲台構築事業に携わる。

天野開造
この頃南都留郡東桂村の天野開造が、晩菘の命を受け工事に従事し、巨万の富を築いたという。現在の都留市境の天野家の豪邸と庭園の素晴らしさと、河口湖の富士博物館の収蔵品に、そのことを偲ぶことができる。
 品川構築事業の嘉永5年(1852年)老中阿部伊勢守の登城の駕寵を目指して、直訴するという事件が起きた。この者達は、晩菘の故郷の農民であり、小前百姓120人の総代、百姓八左ヱ門と吉右ヱ門は晩菘の竹馬の友である。八左ヱ門らの住む栗原筋と下萩原村は田中代官所の支配下であり、同じ栗原筋の北隣り上萩原は、幕府直轄の石和代官所の支配下として分割されていた。この3ケ村の用水堰を最上流の上萩原で独占してしまった。当然の如く中、下の両村の水不足が生じたが、石和代官所のため如何ともしがたく、田中領地の百姓は永年続く凶作のうえ、難渋を強いられることになった。
八左ヱ門(樋口一葉の祖父)
死活の問題となり遂に決死の寺社奉行へと動いたのである。この時の訴状が八左ヱ門の後継者、上乗生野の田中家に今も保存されている由。この八左ヱ門は樋口一葉の祖父であり、吉右ヱ門は晩菘の本家で現在の益田謙次郎氏の祖父である。当時父八左ヱ門と行動を共にしたその子大吉は、一葉の父則義である。
 当時は死罪にも等しいこの駕籠訴事件も、晩菘の助力の計らいにより、村役人、百姓の争いとして懲罪におわった。

晩菘、蕃書調役
 安政2年(1855)、江戸九段下に洋学所が置かれ、翌年蕃書調所と改称され、晩菘は蕃書調役となった。この頃樋口一葉の父則義は故郷を出奔、晩菘を頼って江戸に入り、晩菘の紹介にて調所の小使いとなった。
晩菘、調所組頭(現在の東京大学)
文久元年(1861)、晩菘は調所組頭となるが、この調所こそ、明治政府に敬称された現在の東京大学である。晩菘は組頭就任の喜びを正月3日付の年賀状で、則義の父八左ヱ門に送った。年賀の添書が今も田中家に保存されていると聞く。
 この時代は緊迫した世情が続き、文政6年(1823)の安政の大獄、万延元年(18603月井伊大老を水戸の浪士が暗殺する桜田門外事件が発生している。併せて公武合体などにより、徳川幕府は正に末期的状況となった。とはいえ、徳川300年の余力は武士達のあがきと共に、いまだ厳として揺がなかった。武士にあらざれば人にあらずの階級制度に束縛され、農民は平民として息をひそめ、ひたすら転換期の武士の暴圧を受けぬようい地を這う如く生きていたのである。

晩菘、陸軍奉行
 慶応2年(1866年)12月、晩菘は溝口伊勢守配下の陸軍奉行並(並とは準ずる)支配となる。甲州寒村の一農夫から、遂に場所高五千石、江戸城においては駿府城城代家老の上席の高官を極めた。出府して41年の歳月が流れ、時に68才であった。正に郷土の有徳の士そのものである。
 翌3年、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸にて江戸城を明け渡し、10月大政の奉還となり、改元して明治元年となる。幕府に奉職した晩菘は奉還の真意を理解し、幕府崩壊と共に自ら身を引き横浜に隠任した。
 明治5年(1872年)戸籍制度が新たに公布された。この時期、理由はともかく、晩菘は真下の姓に変え、益田を自称し、郷里の親族四家にも、名主橿原字平次を通じ、益田と改姓させている。これに関する橿原よりの文書が本家益田方に保管されている由。
 この頃旧幕府の抵抗に、新政府は奥州征伐の軍を余儀なくされ、上野の彰義隊との戦い、会津の攻防戦と繰り広げられた。晩菘の養子鴻太郎も彰義隊に加わり、敗北後は榎本武揚に従い、北海道に向かう途中、戦争で負傷し晩蕗のもとに送還された。また甥の坂本麟太郎は旧幕府の大砲方として、五稜郭で戦病死している。
 晩菘はその世情の中、一人白山御殿の自宅に龍り、身辺の整理を終えると、丹後久里浜に難を逃れ、一旦郷里萩原村の慈雲寺に一年程閉居し、再度横浜に隠棲し、戸部学校で教え、私塾を開き、後、明治8年横浜を去り、浅草三筋町の佐野貞次郎方に身を寄せた。夏の7月頃である。以後体力の衰えと、諸病に冒され、仝年(1875年)1017日遂に波乱の生渡を閉じた。享年77才であった。
 実相院得誉晩菘居士。この法諱で、東京牛込原町の専念寺に葬られ、今もなお真下家の墓地はある。墓石には家紋の「丸に陰四ツ目」のみが刻まれている由。
 晩菘は、武田24将の画像を恵林寺へ、五百羅漢の画像を放光寺へ寄進している。しかし碑の建立寺で出生地の慈雲寺には一物の寄進物もない。記録に残る三宅島より流人が持ち帰り贈ったという桑株すら見当らない。が、住職の荻原浩洋師は、晩養家累代の墓を心をこめて供養していると静かに語った。 

追記
晩菘碑文は、公爵徳川家運蒙額、松平康国撰、日立秩父書
「封建之世。士民異等。官限門地。雖有奇才異能。頗難進仕。混然老死於畎畝者何限。‥‥‥(以下略)
<意訳文>
「封建の世。士民等しき異にし。官は門地に限らる。奇才異能有りと雖も。すこぶる進んで仕えるは難し。混然として峡畝に於て老死するとはいずくんぞ限らん……」
 
晩菘会は昭和52年に発会し、毎年1116日同志会員80名により盛大に供養されている。
晩菘とは「おそ咲きの菜の一種である」と、慈雲寺の荻原浩洋師の説明である。辞典によると、菘は「すず菜で、春の七草、別名かぶら菜」とある。

あとがき
今回本章に閲し、遺品、資料、実地検証その他に協力をいただいた、慈雲寺の荻原浩洋師、直系益田謙次郎氏、晩茶会々長益田穣氏、一葉会会長広瀬宗国氏に改めて厚く感謝し、浅学、未熟者達の記述につき、文中に錯誤等ある場合、またすべての登場人物の敬称を略させていただいたこと、お許しを願います。

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